ロシア帝政時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 08:43 UTC 版)
「ミーニンとポジャルスキー広場」の記事における「ロシア帝政時代」の解説
当初、この広場は非公式にヴェルクネポサードスカヤ(Верхнепосадской) と呼ばれていた。そこはポサード上側の中心地で、ここに陸上の交易ルートがあり、街の上側部分の需要を確保する交渉のやり取りが交わされていた。1697年に、生神女福音大聖堂(ロシア語: Благовещенский собор)が建てられると、広場はブラゴヴェシチェンスカヤ (Благовещенской,生神女福音)と呼ばれるようになった。 同広場の正式計画は1770年に初めて策定された。1768年の火災の後、行政当局の要請により正式な都市開発計画がサンクトペテルブルク建設委員会で策定されたが、現地での人材能力不足が計画導入の妨げとなった。計画によると、広場は台形とされていた。この計画が大通りの出発方向を定め、広場および隣接する大通りの建物を石造家屋のみと規定した。 広場の様変わりは1779年、ヤコフ・アナーニンが建築家に任命された時に始まった。1782年に昔からの橋頭堡が解体されて溝が埋められ、1784-1787年に新たな大通りが敷設されて、広場中央にある木造建物が打ち壊された。1787年に郵便局の複合庁舎が建設された。計画に対応しなかった広場側面の民家は19世紀初頭まで残っていたが、その後解体された。
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