アイルランド民族主義運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 10:12 UTC 版)
「アイルランド内戦」の記事における「アイルランド民族主義運動」の解説
条約を巡る対立には、指導者たちの個人的な関係もからんでいた。条約の賛成派・反対派を問わず、指導者の多くがアイルランド独立戦争の参加者であり、親密な友人である場合も多かった。マイケル・コリンズは、自身が条約締結に関するイギリスとの交渉役に任命されたのはエイモン・デ・ヴァレラとの個人的な怨恨が原因であると考えていた。そのためデ・ヴァレラが条約を拒否すると、コリンズはイギリス政府のロイド・ジョージとウィンストン・チャーチルとの交渉に乗り出すことになる。 ドイル・エアラン(アイルランド議会)は1921年12月、かろうじて英愛条約を批准した。条約の批准に際してデ・ヴァレラはアイルランド暫定政権の代表を辞任し、議会外で反条約を掲げるシン・フェイン党を統率した。彼は議会の正統性を攻撃し、議員たちはアイルランドへの忠誠義務に違反していると訴えた。マイケル・コリンズとアーサー・グリフィスにより率いられていた政府は、条約に従ってアイルランド自由国を建国し、独立戦争を戦ったアイルランド共和軍(IRA)に代わる国軍(英語版)と警察の設立を行った。英愛条約の賛同者側は条約賛成派、国軍、自由国であり、それに対して反対者側は条約反対派、不正規軍、共和国であった。IRAは1916年のイースター蜂起の際に建国宣言が行われた「アイルランド共和国」の正統性を主張し、自由国建国という妥協を行った者たちを裏切り者であると見なしていた。デ・ヴァレラも義勇兵としてIRAに参加し、リーアム・リンチらが指導者となった。
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