インパール作戦とインド国民軍の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 23:59 UTC 版)
「インド国民軍」の記事における「インパール作戦とインド国民軍の降伏」の解説
インド国民軍は元捕虜だけでなく、東南アジア在住インド人からも志願者を募ったため、総兵力は約45,000人に達した。そして1944年にはビルマに移動し、「自由インド」「インド解放」をスローガンに、日本軍とともにインパール作戦に参加した。 インパール作戦で当初日本軍はアッサム州(現・ナガランド州)のコヒマを占領し、一旦はインパールに迫るなど進軍を続けた。イギリス第14軍は日本軍の攻撃が始まるとアキャブ方面の第15軍団から2個師団をインパール、ディマプールに抽出し、第33軍団からも第2イギリス師団、第50インド戦車旅団、第14軍予備の第254インド戦車旅団の投入を処置した。同時に第4軍団にはインパールへ後退を命じたが、同軍団の第17師団は日本軍第33師団に退路を断たれて動けず、第50降下旅団はサンジャックで第31師団宮崎支隊に包囲された。マウントバッテン総司令官は3月25日には、戦局不利を認め、ロンドンの統合参謀本部に増援部隊の派遣を要請している。 だが、イギリス軍は当初から日本軍をインパールにひきつけて、補給線が延びきったところを攻撃する計画であり、実際に日本軍は食料や弾薬の補給が続かなかった上に、アメリカから供与された強力な火器を装備するイギリス軍の総反撃を受けて最終的には大敗北を喫した。インパール作戦に参加したインド国民軍は6000人、そのうちチンドウィン川まで到達できたのは2600人(要入院患者2000人)で、その後戦死400人、餓死および戦病死1500人の損害を受けて壊滅している。 この作戦は、制空権もない上に補給・兵站の問題を極端に軽視しており、軍内部でも反対論が続出するほどの完全に無謀な作戦であったが、チャンドラ・ボースは「インド独立の絶好の機会」としてその決定を喜んだ。チャンドラ・ボースは、自らがインド領内に進撃すれば、必ずインド人民が決起すると信じていたのである。実際、かつて日本を厳しく非難してきたマハトマ・ガンディーは、日本軍がビルマへ侵入した辺りから、急に日本寄りの発言を繰り返すようになっていた。これについては、非暴力主義者であるガンディー(彼は英仏に対してドイツの侵攻にも非暴力で対応することを求めていた)は、マレーやビルマのようにインドが日英の戦場となりイギリス軍が敗退して日本の占領下となることを恐れて、独立達成後は日本と講和することを考えていたともいわれる。 インド国民軍は、その後もイラワジ会戦等で日本軍とともにイギリス軍と戦って敗退したが、アウン・サン率いるビルマ国軍が日本軍から離反すると、日本軍と共にビルマからタイに撤退し、そこで第二次世界大戦の終戦を迎え、インド国民軍はイギリス軍に降伏した。チャンドラ・ボースは、次はソビエト連邦の支援によってインド独立を目指そうとしたが、日本経由でソビエト連邦へ向かうべく移動中に台北で飛行機事故に遭い、死亡。なお、ビハーリー・ボースも終戦に先立つ1945年1月21日に日本で客死した。
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