インパール作戦五部作について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 20:58 UTC 版)
「高木俊朗」の記事における「インパール作戦五部作について」の解説
高木はインパール作戦当時、第5飛行師団の報道班員としてビルマに滞在し、第33師団長の柳田元三中将や、旧知の関係だった歩兵第214連隊長の作間喬宜大佐らへの面会を行い、第5飛行師団司令部で作戦の推移を見守った。終戦後、高木は歩兵第214連隊の関係者等への取材を元に、第33師団の苦闘の模様を描いた『イムパール』を1949年に刊行した。また1966年には、第31師団長の佐藤幸徳中将の行動に焦点を当てた『抗命』を発表し、いずれもロングセラーとなった。 その後、第55師団長の花谷正中将の暴虐ぶりを詳述した『戦死』を1967年に、戦車第14連隊を基幹とした井瀬支隊の悲惨な戦闘状況を取り上げた『全滅』を1968年に、第15師団幹部が第15軍の支離滅裂な作戦命令に苦悩する模様を描いた『憤死』を1969年に刊行し、これらインパール作戦五部作は、軍上層部が進めた無謀な作戦の実態を明らかにした作品として評価され、その後の戦史研究等において参照される文献となった。 ノンフィクション作家であり、高木と交流のあった澤地久枝は、高木はビルマで、戦争の悪や悲惨さ以上に、軍中枢の無責任や腐敗・傲慢を実感し、これでは多数の無惨な戦死者が浮かばれないとの思いを残したのではないかと受け止めている。そして、その実相を描き責任をとるべき将官を告発することが、救いようのない死を遂げた者に対する答えとなると考えたのではないか、と述べている。 戦史研究家・小説家の大木毅は、雑誌『歴史と人物』の座談会に参加した高木が、牟田口廉也中将に対して激しい義憤、怒りを抱いているという印象を強く抱き、そうした義憤や怒りが、高木の執筆動機になったのではないかと述懐している。また、高木が元将兵に対して相当量の聞き込みを行っていたことに関して、高木が書き残したエピソードの中には、今となっては文書史料では確認ができず、当時高木が聞き込んで書いたことを信じる以外にないものも存在するとしている。
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