事件以降の出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 09:07 UTC 版)
「八甲田雪中行軍遭難事件」の記事における「事件以降の出来事」の解説
当時陸軍大臣だった寺内正毅は、全国の将校から寄付を募り、事件の翌年に生還者である後藤房之助伍長の銅像を建て、碑文を揮毫した。 1907年(明治40年)、神成大尉の命を受けた伍長後藤房之助が命がけで田茂木野に向け行進した功が認められ、大熊氏廣の制作した神成大尉の雪中行軍遭難記念像(後藤房之助伍長の像)が立てられた。銅像建立の場所は青森湾を見渡すことのできる馬立場付近で、第二露営地(1月24日)と第三露営地(1月25日)の間である。なお、後藤伍長発見の地は銅像よりも数km青森よりの場所である。銅像を後藤房之助本人は当時の連隊長に「よく見ろ」と言われたが、照れくさくなかなか見ることができなかったという。彼は遭難の話はあまり話したがらず、また、後藤伍長は同じく生き残りの村松伍長と仲が良かった。 この八甲田山雪中行軍遭難事件を聞いた、ノルウェー国王ホーコン7世が、1909年(明治42年)、お見舞いとして明治天皇宛にスキー板2台を進呈した。 1971年(昭和46年)、新田次郎が『八甲田山死の彷徨』として小説化。さらにこの小説を原作とした1977年(昭和52年)の映画『八甲田山』で一般に広く知られることになった。 新田次郎の『八甲田山死の彷徨』の終章に、事件後に陸軍と国家が取った対応として遺族には国家から恩給が与えられ皇室からは祭粢料が下賜されたことに続いて、「遭難者は戦死者と同じように扱い、靖国神社に合祀するということを聞いて、遺家族や国民もようやく納得した」と書かれているくだりがあるため、この事件の遭難者が靖国神社の合祀対象となったという誤った説が、長い間流布される結果となったが、上記の情報は誤報であったことが、詳細に明らかにされた。 生還者の中で最後の存命人物だったのは小原忠三郎伍長で、両足と手の指を切断したが、91歳まで存命し、1970年(昭和45年)2月5日に死去した。1964年(昭和39年)12月に陸上自衛隊の渡辺一等陸尉が国立箱根療養所を訪ねて、遭難事故の聞き取り調査を行った。その後、1968年(昭和43年)8月に小笠原孤酒が小原から聞き取りを行った。小原の証言によって事件の詳細が判明した。 2007年(平成19年)2月14日、後藤伍長の銅像に向かうスキーのコース「銅像コース」で雪崩が発生し、死者2人・重軽傷者8人の事故となった。 2011年3月11日に起きた東日本大震災の影響により、陸上自衛隊衛生学校(東京都世田谷区)の史料室の展示品が壊れた際、救出された隊員のうち後藤房之助伍長ら5名の手術前の姿を写した写真が見つかったことが、2012年6月に明らかとなった。これまで術前の写真の存在は知られていなかった。 2012年4月12日、弘前歩兵第31連隊の福島泰蔵大尉が記した報告書や手記、論文、手紙など計241点が陸上自衛隊幹部候補生学校に寄贈された。親族が生家で保管していたもので、2004年の日露戦争開戦100周年を機に、公開を検討していたものである。
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