弘前藩の外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 08:40 UTC 版)
弘前藩は7月13日の段階で奥羽越列藩同盟脱退を藩内に通知し、15日に久保田藩に続き同盟を脱退していた。その際、仙台藩からの使者を殺害したために領内が戦場となった久保田藩の失敗は踏襲しなかった。その上、脱退以降も列藩同盟とは公然と敵対しないよう弁解を用意し、中立の立場に自らを置いた。 実際には新政府側への支援として久保田藩に出兵(補給、医療部隊)していたが、そのことを8月14日に盛岡藩新渡戸伝蔵に詰問されるも「事実無根」と否定した。一方で列藩同盟側の庄内藩へも援兵し、弘前藩へは攻め込まないよう盛岡藩に対して依頼をさせることに成功した。 7月16日には深浦港に停泊していた庄内藩の船を金輪五郎ら奥羽鎮撫隊の直属兵士と久保田藩士が接収する事件が起きた。これは弘前藩からの援軍要請を受けて庄内藩が派遣した船で、200挺の新式銃を積んでいたが、弘前藩は受け取りを拒んで通報したものであった。「東征日記」によると接収された200挺の新式銃のうち100挺は久保田藩に、残りは本荘藩や新庄藩、亀田藩に分配したとある。 ここで、盛岡藩としては自らの掴んでいる久保田藩への援助疑惑と、列藩同盟側に味方していること、一方では約束を違えて久保田藩に出兵していることといった矛盾と直面することになって困惑する。「弘前藩の誠意を疑って攻め入るべき」という意見も目付の多賀佐市らから上がったが、出兵は見送られ、当面は秋田方面への侵攻に専念することになった。 その結果、盛岡藩を含む列藩同盟側は久保田藩の大館城へと迫り陥落目前となった。すると大館城の城代の佐竹義遵(佐竹大和)は追加の救援要請を弘前藩へ送った。参謀醍醐忠順は盛岡領への出兵を促したが、弘前藩は秋田での列藩同盟軍の優位を見て出兵せず、大館城は陥落した。 出兵こそなかったが大館攻城戦直前、弘前藩は久保田藩に対して鉄砲100挺と弾薬1万発を援助していた。また、大館城攻城戦には弘前藩の一部隊も参加しており池内村周辺に布陣していた。だが、大館城が南部藩によって攻略されると弘前藩は部隊を撤退させるとともに、藩境の久保田藩領陣馬村に部隊を駐留させた。 その後、9月に入って東北各地で新政府軍が優勢になると、大館城奪還を企図する新政府軍へと使者を送り、「兵備がようやく整ったので兵を派遣したい」と参軍の意を伝えた。こうして弘前藩は公然と新政府に兵を提出したものの、これらの経緯からより旗色を明確にする必要があり、そのための軍事行動が必要だった。 また弘前藩の秋田戦争への参加態度は、奥羽鎮撫総参謀である田村乾太左衛門らから「日和見である」と見られかねない状況でもあった。
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