開拓の難しさ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:45 UTC 版)
アガヨがメキシコに戻ってから間もなく、ヌエバ・エスパーニャの新しい副王カサフエルテ侯爵フアン・デ・アクナが領土の北部の防衛のために増加した費用を切り詰めるよう命令された。アクナはペドロ・デ・リベラ・イ・ビラロン大佐を指名して北部辺境全体を調査させた。リベラは1724年11月に現在のカリフォルニア州となった所から始めて、その後の3年間を北部辺境の調査に費やし、1727年8月にサンアントニオに到着した。リベラはロス・アダエス、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロレタ砦、およびサンアントニオの砦については満足したが、誰もいない伝道所を25名の守備兵が守っていたデ・ロス・テハス砦については不満だった。インディアン達は伝道所周辺の社会に集まることを拒み、死に際でなければ洗礼も拒んでいた。インディアンはしっかりと武装していたので、フランシスコ会宣教師は伝道所に加わるよう強制することもできなかった。憤懣を覚えた宣教師達が遂にスペイン政府に請願して、50名の兵士達にインディアンの礼拝所を燃やさせ、伝道所近くにその家を建てさせたいと願った。しかし、軍隊は来なかった。 リベラはデ・ロス・テハス砦を閉鎖し、他の砦の兵士数を減らすよう推奨した。その提案は1729年に認められ、全部で125名の兵士がテキサスから外され、わずか144名でロス・アダエス、ラ・バイーアおよびサンアントニオの砦を分け合うことになった。デ・ロス・テハス砦に依存していたテキサス東部の伝道所3カ所は1731年5月にサンアントニオ川沿いに移され、サンアントニオ地域の伝道所は5カ所に増えた。サンアントニオ伝道所には通常300人足らずのインディアンがいた。伝道所で暮らす者達の多くは他に行くところが無く、その後絶滅した小さな部族に属していた。 スペインはその植民地で製造業の発展を阻止し、スペインの商人が取扱いスペインの船舶で運んできたスペインの商品の輸入に制限した。テキサスの港を含め港の大半は密貿易を止めさせることを期待して商船に対しては閉鎖した。法律によってテキサスに向かう商品全てはベラクルスに運ばれ、山越えでメキシコシティに運ばれてからテキサスに送られる必要があった。このことでテキサスの開拓者にとっては商品が大変高価なものになった。フランスのナカタシュにある砦は蓄えが豊富で、商品はそんなに遠くから運ばれてくる必要がなかったので、テキサスの開拓者達は物資の補給をフランスに頼ることが多かった。しかし、スペインの他の宣教師達や植民地人は交易できる多くの商品が無かったので、フランスの交易業者に忠誠なままであるインディアン達に提供できるものがほとんど無かった。
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