開拓の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 20:14 UTC 版)
1868年(慶応4年)の戊辰戦争を経て、伊達藩を含む奥羽諸藩は賊軍の汚名を着せられた。亘理伊達家は領地のほとんどを失い、路頭に迷う藩士たちのため、明治2年(1869年)、邦成は北海道移住を決意した。 亘理の出発に際しては「戸主は夫婦携帯、独身移住は許さじ」との規則があった。保子はこのとき40歳代半ばで、当時としては初老といえる年齢であった。邦成はこの年齢のことや、城育ちのため、開拓生活は耐えられないと考えて、保子の兄の慶邦のもとで暮すように勧め、世話役として豊子を残して行こうと考えた。しかし保子は「自分も行きます」と言い張った。保子は邦成の義母とはいえ、伊達宗家の姫君であり、東京に出た兄の慶邦も一緒に住もうと引き留めたが、保子は聞き入れず、毅然と「武士の世界は領主と家臣が苦労をわかち合うべき」「家臣が家族皆で行くのに、領主が家族を残して行っては示しがつかない」と説いた。伊達一族の者たちも反対したが、保子はそれを押し切って、邦成や家臣たちと一緒に北海道へ行くことを決心した。
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