魯口攻略
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同月、東晋の寧朔将軍栄胡は魯郡で反乱を起こし、彭城ごと前燕へ帰順した。 3月、後趙でかつて衛尉を務めていた李犢が常山で数千の兵を集め、前燕の統治に反抗して普壁塁に立て籠もった。5月、慕容儁は慕容恪に李犢討伐を命じた。慕容恪は出撃するとすぐさまこれを降伏させ、更に東へ進んで魯口を守る呂護討伐に向かった。 11月、かつて後趙の将軍であった楽陵の朱禿・平原の杜能・清河の丁嬈・陽平の孫元らは、後趙崩壊以降は各々兵を擁して城砦に拠っていたが、ここに至ってみな前燕に降伏した。慕容儁は朱禿を青州刺史に、杜能を平原郡太守に、丁嬈を立節将軍に、孫元を兗州刺史に任じ、これまで通り城砦に留まる事を赦して慰撫に当たった。 12月、衛将軍慕容恪・撫軍将軍慕容軍・左将軍慕容彪らは幾度も上表し、給事黄門侍郎慕容覇には命世の才(世に名高い才能)があるとして、大任を委ねるよう勧めた。慕容儁はこれを容れ、慕容覇を使持節・安東将軍・北冀州刺史に昇進させ、常山を鎮守させた。 同年、慕容儁は代へ遣使し、修好を深めた。 354年2月、慕容恪は魯口を包囲し、3月にはこれを陥落させた。呂護は城を脱出して逃走を図ったが、前軍将軍悦綰はこれを追撃して大いに攻め破り、その配下を尽く降伏させた。呂護自身はかろうじて野王に逃れると、弟を派遣して前燕に謝罪した。慕容儁はこれを許して河内郡太守に任じ、野王の統治を認めた。 同月、羌族の首領姚襄は自ら支配していた梁国ごと前燕へ帰順した。 同月、慕容儁は慕容評を都督秦雍益梁江揚荊徐兗豫十州河南諸軍事に任じ、仮に洛水の鎮守を命じた。また、慕容強を前鋒都督・荊徐二州縁淮諸軍事に任じ、河南へ進ませて駐屯させた。
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魯口攻略
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以前より後趙の旧将である王午は、魯口を占拠して事実上の独立体制を敷いていたが、冉閔の敗北を知ると同年7月に安国王を称して正式に自立した。 8月、慕容恪は封奕・陽騖と共に魯口へ侵攻すると、王午は籠城を図ると共に冉閔の子の冉操を前燕へ送還し、許しを請うた。これを受け、慕容恪らは城外の食糧を略奪してから軍を帰還させた。 10月、王午討伐の為に再び兵を挙げ、安平に陣を布くと、兵糧を蓄えて攻城兵器を整え、城攻めの準備を進めた。そのような中、中山郡出身の蘇林という人物が無極において反乱を起こし、自らを天子と称した。これを受け、慕容恪は魯口から引き返すと、蘇林討伐に向かった。慕容儁は殿中将軍慕輿根を加勢として派遣し、慕容恪は彼と共に蘇林軍を攻撃すると、蘇林を斬り殺して乱を鎮圧した。 同時期、王午は配下の将軍秦興に殺され、その秦興もまた呂護に殺された。呂護は王午同様に安国王を自称すると、引き続き魯口の支配を継続した。 同月、慕容恪は前燕の群臣500人と共に、皇帝璽を奉じて慕容儁の下へ出向くと、冉魏を滅ぼして中原の統治者となった事を理由に帝位に即くよう要請した。慕容儁はこれを受け入れ、帝位に即く事を決断した。11月、即位の前準備として、慕容儁は前燕の歴史の中で始めて百官を設置し、朝廷としての体裁を整えた。慕容恪は侍中に任じられた。その後、慕容儁は日を選んで正陽殿において皇帝位へ即いた。やがて衛将軍に任じられた。 353年3月、後趙でかつて衛尉を務めていた李犢が常山で数千の兵を集め、前燕の統治に反抗して普壁塁に立て籠もった。5月、慕容恪は李犢の討伐を命じられると、出撃してすぐさまこれを降伏させた。その後、更に東へ進んで魯口を守る呂護を攻撃した。 12月、慕容恪は撫軍将軍慕容軍・左将軍慕容彪らと共に幾度も上表し、給事黄門侍郎慕容覇には命世の才(世に名高い才能)があるとして、大任を委ねるよう勧めた。慕容儁はこれを容れ、慕容覇を使持節・安東将軍・北冀州刺史に昇進させ、常山を鎮守させた。 354年2月、慕容恪は魯口を包囲し、3月にはこれを陥落させた。呂護は城を脱出して逃走を図ったが、前軍将軍悦綰がこれを追撃して大いに攻め破った。呂護自身はかろうじて野王に逃れるも、その配下は尽く降伏した。これにより前燕の領土はさらに拡大した。 4月、慕容恪は太原王に封じられると共に、仮節・大都督・大司馬・侍中・録尚書事を拝命した。これ以降、慕容恪は太尉封奕・司徒慕容評・司空陽騖と共に群臣の筆頭となり、朝政を統括していった。
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