麻秋軍を奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
12月、密雲山に逃れていた段遼が後趙へ降伏の使者を派遣すると、石虎はこれを受け入れて征東将軍麻秋に3万の兵を与えて段遼を迎えに行かせた。だが、この降伏は偽りであり、段遼は密かに前燕にも降伏の使者を派遣していた。慕容皝は自ら軍を率いて段遼を迎え入れると、彼と密謀して後趙軍を奇襲する事を目論み、慕容恪に7千の精鋭を与えて密雲山に派遣して伏兵として潜伏させた。慕容恪は進軍してきた麻秋の軍を三蔵口において大打撃を与え、兵卒の6、7割方を戦死させた。麻秋は馬を棄てて逃走したが、その司馬である陽裕を生け捕りとした。また、麻秋軍の別働隊を率いていた将軍鮮于亮は最後まで降伏を拒んだが、慕容皝が使者を派遣して馬でもって迎え入れると、降伏に応じた。慕容皝は段遼とその部族民を引き連れてから帰還すると、段遼を上賓の礼をもって待遇した。また、かねてより陽裕の名声を聞いていたのですぐに彼を釈放して郎中令に抜擢し、また鮮于亮の才覚を高く評価して崔毖の娘を妻として与え、左常侍に抜擢した。 339年、慕容皝は段遼を謀叛を起こそうとした罪で側近数十人ともども誅殺し、首は後趙へと送った。
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