劉佩_(前燕)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 劉佩_(前燕)の意味・解説 

劉佩 (前燕)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/04 07:55 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

劉 佩(りゅう はい、? - 344年)は、五胡十六国時代前燕の人物。河間郡の出身。

生涯

前燕に仕え、材官将軍に任じられた。

334年2月、乙連にいる段部を攻めたが、勝利できなかった。

後に玄菟郡太守に任じられた。

338年5月、後趙君主石虎が数十万の兵の兵を率いて前燕へ襲来し、郡県の諸部は多数石虎へ寝返り、その数は36城に及んだ。後趙軍が棘城に逼迫すると、慕容皝は城を放棄して後退しようとしたが、劉佩は進み出て「今、強寇が外にあり、衆人の心は恐れおののいております。事の安危は一人にかかっており、大王は逃れるなどと考えずに、将士を鼓舞して自らの強を表すべきであって、弱を示すべきではありません。今、事は急を要します。臣がこれから出撃して、敵に大勝してみせます。そうすれば、安心するに足りるでしょう」と応えた。そして、命を賭して数百騎を率いて後趙軍に突撃すると、大打撃を与えて兵を斬獲してから帰還した。これにより後趙軍の士気は挫かれ、城内の士気は百倍した。その後も後趙兵は四方から蟻のように群がったが、慕輿根慕容恪らの奮戦により撃退に成功した。

344年1月、慕容皝は宇文部討伐の軍を興すと、慕容翰が前鋒となり、劉佩はその副将となった。前燕軍は迎え撃って来た宇文部軍を大破し、都城を攻略して宇文部を滅亡に追いやった。だが、劉佩は乱戦の中で流れ矢に当たり、戦死してしまった。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「劉佩_(前燕)」の関連用語

劉佩_(前燕)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



劉佩_(前燕)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの劉佩 (前燕) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS