前燕の猛将とは? わかりやすく解説

前燕の猛将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 00:54 UTC 版)

慕輿根」の記事における「前燕の猛将」の解説

大人部族長)として榼盧城(現在の河北省秦皇島市撫寧区の東にあるという)を統治しており、同じ鮮卑族である前燕慕容皝服属していた。 やがて慕容皝よりその並外れた弓術の腕を買われ将軍取り立てられ側近として傍近くに仕えようになった338年4月後趙君主石虎数十の兵を派遣して前燕侵攻開始した。これにより郡県の諸部族多数後趙寝返り、その数は36城に及んだ後趙軍が本拠地城へ逼迫すると、慕容皝は城を放棄して後退しようと考えたが、慕輿根が「趙は強大であり我々は弱小です。もし大王慕容皝)が逃げれば趙は調子づき、その勢いで我が国攻め込めば、兵はさらに強くなり食糧確保出来、もはや打つ手無くなります。敵も大王逃亡望んでいるというのに、わざわざその手乗ってどうするというのですか!今は守り固めて籠城すれば、我が軍志気百倍ます。敵の攻撃持ちこたえれば付け入る隙も見つかるでしょう。戦う前に逃げ出してしまえば万に一つも望みはありませんぞ!」と諫めたので、思いとどまった後趙軍は城を包囲して四方からのように群がったが、慕輿根昼夜力戦し、十日余りに渡って決死の防戦続けた後趙軍は最後まで城を攻略する事が出来ず遂に退却した戦後慕容皝より後趙撃退功績として、褒賞与えられた。また、折衝将軍昇進した339年4月前軍慕容評・広威将軍慕容軍・盪寇将軍慕輿泥と共に後趙領の遼西侵攻し千家余り捕獲してから軍を帰還させた。帰還途上後趙鎮遠将軍石成・積弩将呼延晃・建威将軍張支らより追撃受けたが、慕輿根らは返り討ちにして呼延晃・張支の首級挙げた344年2月慕容皝宇文部征伐の軍を興すと、慕輿根慕容恪慕容翰劉佩慕容軍慕容覇(後の慕容垂)らと共に兵を率いて従軍し三道分かれて進軍した宇文部大人宇文逸豆帰は南羅大渉夜干精鋭与えてこれを迎撃させたが、前燕軍はこれを破って夜干戦死させた。これにより宇文部の軍はみな戦意喪失し、前燕軍は都を攻め落とした宇文逸豆帰は軍を放棄して漠北逃走し宇文部勢力は散亡した。 346年1月慕容儁指揮の下、慕容軍慕容恪と共に1万7千の兵を率いて夫余討伐向かった慕輿根諸将と共に矢石に身を晒しながら大胆に進撃し一挙に本拠地攻略すると、玄王部落の民5万余り捕虜として連行した

※この「前燕の猛将」の解説は、「慕輿根」の解説の一部です。
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