前燕の猛将
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大人(部族長)として榼盧城(現在の河北省秦皇島市撫寧区の東にあるという)を統治しており、同じ鮮卑族である前燕の慕容皝に服属していた。 やがて慕容皝よりその並外れた弓術の腕を買われて将軍に取り立てられ、側近として傍近くに仕えるようになった。 338年4月、後趙君主石虎は数十万の兵を派遣して前燕侵攻を開始した。これにより郡県の諸部族は多数が後趙へ寝返り、その数は36城に及んだ。後趙軍が本拠地の棘城へ逼迫すると、慕容皝は城を放棄して後退しようと考えたが、慕輿根が「趙は強大であり我々は弱小です。もし大王(慕容皝)が逃げれば趙は調子づき、その勢いで我が国へ攻め込めば、兵はさらに強くなり食糧も確保出来、もはや打つ手は無くなります。敵も大王の逃亡を望んでいるというのに、わざわざその手に乗ってどうするというのですか!今は守りを固めて籠城すれば、我が軍の志気は百倍します。敵の攻撃を持ちこたえれば、付け入る隙も見つかるでしょう。戦う前に逃げ出してしまえば、万に一つも望みはありませんぞ!」と諫めたので、思いとどまった。後趙軍は棘城を包囲して四方から蟻のように群がったが、慕輿根は昼夜力戦し、十日余りに渡って決死の防戦を続けた。後趙軍は最後まで棘城を攻略する事が出来ず、遂に退却した。戦後、慕容皝より後趙撃退の功績として、褒賞を与えられた。また、折衝将軍に昇進した。 339年4月、前軍師慕容評・広威将軍慕容軍・盪寇将軍慕輿泥と共に後趙領の遼西へ侵攻し、千家余りを捕獲してから軍を帰還させた。帰還の途上、後趙の鎮遠将軍石成・積弩将軍呼延晃・建威将軍張支らより追撃を受けたが、慕輿根らは返り討ちにして呼延晃・張支の首級を挙げた。 344年2月、慕容皝が宇文部征伐の軍を興すと、慕輿根は慕容恪・慕容翰・劉佩・慕容軍・慕容覇(後の慕容垂)らと共に兵を率いて従軍し、三道に分かれて進軍した。宇文部の大人宇文逸豆帰は南羅大渉夜干へ精鋭を与えてこれを迎撃させたが、前燕軍はこれを破って渉夜干を戦死させた。これにより宇文部の軍はみな戦意喪失し、前燕軍は都を攻め落とした。宇文逸豆帰は軍を放棄して漠北へ逃走し、宇文部の勢力は散亡した。 346年1月、慕容儁の指揮の下、慕容軍・慕容恪と共に1万7千の兵を率いて夫余討伐に向かった。慕輿根は諸将と共に矢石に身を晒しながら大胆に進撃し、一挙に本拠地を攻略すると、玄王と部落の民5万余りを捕虜として連行した。
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