前燕の宰相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 17:30 UTC 版)
337年9月、封奕は他の群臣と共に協議し、慕容皝が担っている使命に比べ、与えられている爵位が軽すぎると考えた(慕容皝は名目上は東晋の臣下として遼東・遼西地方の回復を命じられていたが、その爵位は遼東公に過ぎず、慕容廆の時代にも燕王の位を望んだが、遠回しに拒絶されていた)。その為、封奕は他の群臣を従えて慕容皝の下へ赴くと、東晋朝廷の許可を待たずに燕王を称するよう勧めた。慕容皝はこれを聞き入れると、即位する前にまず官僚の整備を行い、封奕は国相に任じられ、あらゆる官僚の筆頭に立てられた。また、併せて武平侯にも封じられた。10月、慕容皝は燕王に即位し、境内に恩赦を下した。これが正式な前燕の建国とされる。 338年5月、後趙君主の石虎は数十万の兵を派遣して前燕侵攻を開始した。これにより郡県の諸部族は多数が後趙へ寝返り、その数は36城に及んだ。後趙軍が本拠地の棘城へ逼迫すると、慕容皝はこれを憂えて封奕へ計略を問うた。封奕は「石虎の凶暴残虐は甚だしく、民・神共に苦しんでおります。禍敗は必至であり、それが今日なのです!今、奴らは国を空にして遠くから来寇しておりますから、攻守の勢いは異なっております。たとえその兵馬が精強といえども、煩いを為すには足りますまい。兵を留めたまま月日を重ねれば、必ずや隙を生むことでしょう。ただ堅守してその時を待つのみです」と説いた。これにより慕容皝は大いに安堵して勇気づけられ、ある者が慕容皝に降伏を勧めた時には「我は天下を取るというのに、どうして人に降るというのか!」と叱責した。その後、後趙軍は棘城を包囲して四方から蟻のように群がったが、慕輿根らが10日余りに渡って昼夜防戦した事により撃退に成功した。
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