前燕の部将とは? わかりやすく解説

前燕の部将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 19:29 UTC 版)

慕容垂」の記事における「前燕の部将」の解説

鮮卑慕容部出身前燕慕容皝の第5子として生まれる。兄に慕容儁慕容恪、弟に慕容納・慕容徳など。初名は「覇」だったが、ある日落馬して歯を折る大怪我をし、兄の慕容儁によって「𡙇」(偏が垂、旁が夬、「缺」と同字常用漢字では「欠」)と改名させられた。その後さらに旁の「夬」を取り除いて「垂」と変えられた。 父からは寵愛され、342年高句麗344年宇文逸豆帰討伐従軍348年に父が亡くなり兄が即位した後は後趙滅ぼした冉閔建てた冉魏討伐にも参戦戦功により352年に呉王に任命され侍中・右禁将軍・録留台事にも任じられ、征南将軍荊州兗州牧も兼ねて南境配置された。360年に兄が死去、甥の慕容暐即位した時は慕容暐補佐になった兄の慕容恪重用され365年慕容恪従軍して東晋桓温奪われていた洛陽奪還した369年4月桓温東晋軍が3度目北伐開始し前燕軍は敗退して黄河北岸の枋頭まで退却し前燕中枢部では龍城への遷都検討された。これに対して慕容垂は自ら軍を率いて桓温対戦し前秦援軍到着する前に桓温破って大勝名声上げて評価高まった。 しかし、それが原因逆に叔父太傅慕容評皇太后の可足渾氏に恨まれ排除動きがあったため、慕容垂前秦苻堅の下に亡命した

※この「前燕の部将」の解説は、「慕容垂」の解説の一部です。
「前燕の部将」を含む「慕容垂」の記事については、「慕容垂」の概要を参照ください。

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