前燕との決戦
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369年7月、東晋の大司馬桓温が前燕討伐に乗り出し、枋頭まで軍を進めた。劣勢に立たされていた慕容暐は使者を苻堅の下に派遣して、虎牢以西の地を割譲する事を条件に援軍を派遣するよう求めた。8月、苻堅の命により、鄧羌は苟池と共に歩兵騎兵合わせて二万を率いて慕容暐救援に向かい、11月には敵軍を撃ち破った。東晋軍が退却したのを確認すると、鄧羌らも軍を返して帰還した。 東晋軍が撤退した後、虎牢の地が惜しくなってきた慕容暐は、約束を反故にした。これに苻堅は激怒し、王猛と建威将軍の梁成・鄧羌に歩兵騎兵合わせて三万を与えて攻撃させた。 12月、洛州刺史の慕容筑が守る洛陽に攻め込んだ。370年1月、慕容臧が精鋭十万を従えて洛陽へ救援にやってくるも、鄧羌は梁成と共にこれを撃破した。戦意喪失した慕容筑が降伏を申し出るとこれを受け入れた。王猛らは帰還し、鄧羌は金墉に留まり統治の任に当たった。 370年6月、苻堅は王猛を総大将に任じ、楊安・張蚝・鄧羌ら十将、歩兵騎兵合わせて六万の兵を与えて、前燕討伐に向かわせた。10月、前燕を攻撃して潞川にまで進軍した際、将軍徐成を敵軍の偵察に派遣した。だが、徐成は期日に戻らなかったため、王猛は規則に則ってこれを斬ろうとした。鄧羌は「今、賊は多数で我が軍は少なく、それに徐成は大将であります。どうかお許しくださいますよう」と、徐成の助命を乞うた。王猛は「ここで徐成を処断しなければ軍法が成立しない」とそれを拒否した。なおも鄧羌は「徐成は私と同郡の出身であります。確かに期日に遅れたことは斬罪に値します。ですが、願わくばともに戦功によって償いたいと思います」と食い下がった。だが、王猛はこれを許さなかったため、鄧羌は怒って陣営に帰り、兵をもって王猛の陣を攻めようとした。王猛がその理由を問うと「詔を受けて遠路はるばる賊を撃ちに来て、今近くに賊がいるのに身内で互いに殺し合おうとしております。このため先にその害を除こうとしているのです」と言った。王猛は鄧羌の義侠に感じ入ったうえ、その智勇を惜しんでいたため、「将軍はもうやめるように。我も今回に限り徐成を許そう」と言った。鄧羌が王猛に謝すと、王猛がその手をとり「我は将軍を試しただけである。将軍は同郡の将に対してもそのような態度をとっているからには、国家への忠誠はいうまでもないだろう。賊のことを憂う必要は無くなったな」と言った。 敵軍の総大将慕容評との決戦が近づいてくると、王猛は鄧羌に「今日の戦は、将軍でなければ勝ち得ないだろう。勝敗の如何は、この一戦にある。将軍、全力を尽くされよ」と鼓舞すると、鄧羌は「司隷校尉を与えてくださるのであれば、公の憂い事は無くなりましょう」と答えた。王猛は「それに関しては、我の権限が及ぶ所ではないので、何とも言えない。しかし、安定郡太守・万戸侯を与えられるであろう事は、確実と言えよう」と言った。鄧羌は、自分の望みが薄い事を知らされると、顔からは笑みが消え、そのまま陣へ退いた。間も無く戦闘が開始されると、王猛は鄧羌を呼び出したが、彼は寝ていたためこれに応じなかった。そのため王猛は、鄧羌の下へと馬を飛ばした。王猛が到着すると、鄧羌は帳中で酒を飲んでいた。鄧羌は、王猛自ら出向いてきたとなれば仕方が無いと思い、ようやく戦う気になった。馬に跨がると張蚝・徐成らを従えて、矛を片手に慕容評軍へ突撃を開始した。突撃すること四度、縦横無尽に敵陣を駆け巡り、近寄る者は全て右手で握った矛でなぎ払った。旗と言う旗を奪い、将と言う将を斬った。彼の四度の突撃だけで、殺傷された敵軍の兵は数百に上った。日が高くなる頃には、戦況は決していた。慕容評の軍は大敗を喫し、捕虜や戦死した兵はゆうに五万を超えた。だが鄧羌は、この勝利に満足する事無く、執拗なまでに敵軍に追撃を掛けた。慕容評はこの追撃によって、降服した者の数を含めると十万の兵を失い、単騎でかろうじて鄴へと逃げ込んだ。 前燕の宜都王慕容桓は1万余りを率い、沙亭に屯して慕容評の後詰となっていたが、慕容評が敗れたと聞くと引き返して内黄に屯した。 11月、苻堅が鄧羌に信都を攻めさせると、慕容桓は鮮卑五千を率いて龍城へ撤退した。 後に前燕が滅ぶと論功行賞が行われ、鄧羌は使持節・征虜将軍・安定郡太守・真定郡公とされた。 371年1月、王猛は過去の功績から鄧羌を司隷校尉とするよう請うと、苻堅は詔を下して、「司隷校尉は国家の近畿を統べる重要な任務であるが、名将に対してその優秀さを示すものではない。鄧羌は廉頗・李牧のような才があり、朕は征伐の任をゆだねるつもりである。北は匈奴を平らげ、南は揚・越の地(東晋)を平らげることが鄧羌の任であるのだ。司隷校尉の職では与えるには足りぬ」と言い、鎮軍将軍に昇進させて位を特進とした。
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