兄弟間の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
慕容皝の庶兄の慕容翰は勇猛な武人で優れた才能を持っていたが、慕容皝はかねてよりその才覚を妬んでいた。また、同母弟の慕容仁とその弟の慕容昭は常日頃より慕容廆から寵愛を受けていたので、慕容皝は彼らに対しても日頃から不平不満を抱いていた。こうした経緯もあり兄弟の仲は昔から芳しくなかったが、慕容皝が後を継いでからは彼らへ対する猜疑心はさらに募っていた。 10月、慕容翰は慕容皝から禍いを受ける事を恐れ、止む無く子息と共に段部へ亡命してしまった。 また同月、慕容仁は慕容廆の葬儀に参列する為に駐屯地の平郭から棘城へ赴いたが、彼もまた慕容皝に誅殺されるのではないかと心中恐れており、それは棘城内で暮らしている慕容昭も同じであった。その為、彼らは密かに慕容皝を誅殺して自分たちで国権を掌握する事を企み、慕容仁がまず平郭に戻ってから密かに挙兵して棘城を奇襲し、慕容昭が城内より呼応するという計画を立てた。慕容仁はその計画を内に秘めたまま、葬儀を終えると平郭に帰還した。 11月、慕容仁は計画を実行に移し、慕容皝に気取られないように密かに西へ向けて進軍を開始した。だが、棘城内にいるある人物が慕容仁らの謀略を漏れ聞いており、反乱計画を慕容皝へ密告した。慕容皝は当初これを信用しなかったが、念のため慕容仁の下へ使者を派遣し、その動向を確認させた。この時、慕容仁は既に黄水まで軍を進めていたが、使者が到来した事で計画が露呈したと知り、計画を中止するとその使者を殺害して平郭に撤退した。慕容皝はこれにより反乱の計画が事実だと知り、すぐさま慕容昭に自害を命じた。
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