15年間の監禁生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:38 UTC 版)
「アリエノール・ダキテーヌ」の記事における「15年間の監禁生活」の解説
幽閉中のアリエノールはソールズベリー、ノッティンガムシャー、バークシャーを転々としながらヘンリー2世の監視下に置かれた。彼女をよそに様々な出来事が起こり、1179年にルイ7世が重病に陥った息子フィリップの病気治癒を願いベケットの墓を詣でた時に一時釈放、フィリップは病気が治ったがルイ7世は衰弱、翌1180年に死去した。続いて相変わらず実権の無い若ヘンリー王と、アキテーヌの諸侯反乱の鎮圧で名を上げたリチャードの仲が悪化し、ジェフリーが若ヘンリー王に味方して父も兄弟間の対立に不干渉の態度を見せる中、内戦が勃発する寸前の1183年に若ヘンリー王は死去した。若ヘンリー王が病死した際、監禁先に知らせにきたウェールズの司教にアリエノールは、数日前に見た夢から解っていたと告げたという。 病床で懺悔と父への許しを求めた若ヘンリー王は遺言で父に母を自由の身にして欲しいと願い、それが叶えられたのかアリエノールの監視は緩められ、ソールズベリーで娘のマティルダとハインリヒ獅子公夫妻の訪問を迎える許可を与えられた。行動範囲は翌1184年になると広がり、返礼としてウェストミンスターに滞在していたマティルダ夫妻を訪問、復活祭ではロンドン北方のバークハムステッドで過ごし、11月30日にはウェストミンスター宮殿の祝祭に出席、12月にウィンザー城で開かれた家族会議に呼び出された。ヘンリー2世からは真紅のドレスと金色の鞍を贈られ、彼のアリエノールへの緩和は態度の変化が推察される一方、家族会議で話し合う相続問題でアリエノールを味方に付けたい政治的配慮も伺える。 若ヘンリー王亡き後、息子の中ではリチャードが最も母の愛を受けたが、反対にジョンは母に疎まれる代わりに父に愛されて養育された。若ヘンリー王死去により1169年の頃から変更された分割相続の家族会議でも両親の意向が衝突、ヘンリー2世はリチャードに若ヘンリー王へ与えるはずだったノルマンディー・メーヌ・アンジューを、ジェフリーにブルターニュを相続、ジョンにはリチャードにポワティエ・アキテーヌを譲らせる(初めリチャードからジェフリーへ譲らせる予定を変更)案を家族に同意させようとした。ところが、リチャードは兄と同じく実権の無い共同統治者にされる恐れがあるこの提案を一蹴、アリエノールも1169年にルイ7世臨席の下で決められた相続を根拠にして反対、出席した他の重臣たちも反対したためヘンリー2世はジョンのアキテーヌ譲渡を諦めるしかなかった。この後リチャードがアデル王女の一件を根拠にノルマンディーで叛乱を起こすと、対応に当たったヘンリー2世は軟禁中のアリエノールを一時解放して共にノルマンディーを訪れ、リチャードにアリエノールへのアキテーヌ返還を了承させて一件落着かと思われた。 しかし、ヘンリー2世の晩年は災難に見舞われた。嫁資を巡るフランスとの戦争で息子たちとも対立したのである。1186年にジェフリーが馬上槍試合で事故死、同年に若ヘンリー王の未亡人マルグリットがハンガリー王ベーラ3世と再婚すると、ヴェクサンをフランスへ返還する義務が生じた。アデルの嫁資ジゾール(英語版)も未だ彼女がリチャードと結婚していないため、マルグリットとアデルの異母弟のフランス王フィリップ2世からヴェクサンとジゾールの返還を要求されたがヘンリー2世は要求を引き延ばし続けた。1188年に何度目かの交渉が決裂してイングランドとフランスの戦争が起こると、フィリップ2世に懐柔されたリチャードと対立、翌1189年の戦争で形勢不利になったヘンリー2世はシノン城へ退却した。そこでジョンもリチャード側についたことに愕然、失意の内に崩御した。 イングランド王位を継いだリチャード1世(獅子心王)はフォントヴロー修道院で行われた父の葬式に出席した後、父の側近だったウィリアム・マーシャルと和解、彼を母のいるウィンチェスターへ派遣して解放させた(マーシャルの到着前にアリエノールは自ら解放したとも)。こうして、アリエノールは15年に渡る監禁生活から自由になった。
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