兄弟間での確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:22 UTC 版)
「ロタール1世 (フランク王)」の記事における「兄弟間での確執」の解説
こうした経緯で長男のロタールはアーヘンにて共同皇帝として父ルートヴィヒにより戴冠され、父とともに帝位についた。ルートヴィヒの次男ピピンはアキタニア王、三男ルートヴィヒ(のちの東フランク王ルートヴィヒ2世 )はバイエルンを任された(ただし、ルートヴィヒの死後はロタールのものになるとされた)。さらに818年、それまでイタリアを支配してきたベルンハルト(イタリア王ピピンの庶子)が前年の継承令に対する不満から反乱を起こして刑死し、ロタールはイタリア王の地位を手に入れた。その後、父ルートヴィヒによる異母弟シャルル(後のシャルル2世)に対する領土分割への不満から、ロタールは単独の帝位を狙って幾度か父ルートヴィヒに反乱を起こすことになるが、838年の次弟ピピンの死を契機に翌839年にヴォルムスで帝国をロタールとシャルルとの間で分割することが決められ、解決が図られた。840年6月20日、父ルートヴィヒ1世はフランクフルト近郊で死去し、単独皇帝となった。 「カールの戴冠」によって復興した「(西)ローマ帝国」は、宗教的権威の中心ローマと、政治的権力の中心アーヘンという、いわば二つの中心を持つ帝国であった。ロタールは、そのローマとアーヘンを結ぶライン川、モーゼル川流域などの支配を強化しようとしたが、これが兄弟同士の激しい抗争をもたらす。 当時、父ルートヴィヒの2番目の妻の息子であったシャルルがフランク王国西部で勢力を伸ばしていた。そのシャルルと、バイエルンなどを支配していた三弟のルートヴィヒが、兄のこれ以上の権力強化を懸念して叛旗を翻すことになった。ロタール側には次弟アキタニア王ピピンの子でアキタニアを支配しシャルルと対立していたピピン(2世)がついた。すなわち、シャルルとルートヴィヒ対ロタールという兄弟争いの構図が形成された。
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