ロレーヌ公位継承問題
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「アンリエット・ド・ロレーヌ」の記事における「ロレーヌ公位継承問題」の解説
ロレーヌ公アンリ2世の弟ヴォーデモン伯フランソワとザルム女伯クリスティーヌの間の第3子・長女として生まれた。男子のいなかったアンリ2世は、1588年ブロワ城で暗殺されたギーズ枢機卿の非嫡出子で、ロレーヌ宮廷に引き取って養育したアンセルヴィル男爵ルイ・ド・ギーズ(フランス語版)に非常に目をかけており、男爵を自分の長女ニコルと結婚させて公位継承者に指名するつもりだった。しかしこの計画は、継承順位からすればニコルの配偶者として公位を継ぐ権利があるのは自分の長男だと考えていた弟のヴォーデモン伯との間に亀裂を生んだ。兄弟間の対立が激しくなると、ヴォーデモン伯は妻子の身の安全のために彼らをヴォーデモンの所領に避難させたうえ、自身はミュンヘンに逃れた。両派による論争の中、アンリ2世は相当な苦労をして公国の等族を説得して自分の味方に付けると同時に、弟ヴォーデモン伯とも和解するためにリュッツェルブルク男爵(Baron von Lützelburg)をミュンヘンへ派遣した。ところが旅の帰途、リュッツェルブルクはナンシー近くの町の大通りで、ヴォーデモン伯の護衛隊長だったピエモンテ人リゲ(Riguet)を殺害してしまう。アンリ2世はこの事件を弟に知らせまいとしたが、ヴォーデモン伯はこの件を察知した。アンリ2世は先手を打って軍勢を集め、ヴォーデモンを包囲し始めた(1620年)が、頼みの綱だった義弟のバイエルン公マクシミリアンは彼に味方せず、等族たちはヴォーデモン伯との和解を懇請した。ヴォーデモン伯に調停を依頼されて任地のボヘミアから戻ってきたドミンゴ・デ・ヘスス・マリア(ドイツ語版)神父が公爵に兄弟で争うことの愚を滔々と説き、ようやく兄弟は和解するに至った。両者の和解の証として、1621年5月18日、公爵の長女ニコルとヴォーデモン伯の長男シャルルの婚約が成立した。ニコルとの縁談を失ったアンセルヴィル男爵は、補償としてヴォーデモン伯の長女アンリエットとの婚約を求めた。
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