忠言を無視
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/31 09:44 UTC 版)
同月、前秦へ使者として赴いていた大鴻臚梁琛と苟純が鄴に帰還した。梁琛は慕容評へ「秦では日夜軍事訓練が行われ、多量の兵糧が陝東へ運び込まれております。我が見ますに、今の平和は長くは続きますまい。呉王垂も秦へ亡命してまった事で、秦は必ずや我らの隙を衝く事でしょう。すぐにでも防備を固められますよう」と進言したが、慕容評は「叛臣を受け入れて平和を破るなど、秦がそのような真似をする訳がなかろう!」と反論した。だが、梁琛は「今、中原が二つに別れて対立しているのは、互いに相手を併呑せんと画策した為ではありませんか。桓温の来寇により秦が援軍を出したのは、我らとの友好によるものではありません。もし燕に隙を見つければ、どうして彼らが本来の志を忘れましょうか!」と訴えた。また、慕容評は「秦主(苻堅)はどの様な人物であったか」と問うと、梁琛は「明哲であり、決断力を有しております」と答えた、また、王猛についても問うと「彼の名声は、虚名ではありますまい」と答えた。これに慕容評は「我の聞いている話とは異なる。汝は主君を脅すというのか!」と述べて取り合わなかった。梁琛は慕容暐にも同様に前秦の襲来に備えるよう訴えたが、彼もまた応じなかった。 その為、梁琛は皇甫真へも相談を持ち掛けると、皇甫真は深くこれを憂慮し、慕容暐へ上疏して「苻堅と我らは互いに使者を往来させ、輔車の関係を保っておりますが、隣敵として等しく抗しあっており、国の勢いも同一です。利があればそちらを優先するのは明らかであり、慕善の心などありません。久要(旧約)を崇めるために信を守ち、和を存続させる事などありはしないのです。近頃は行人の往来を重ねており、またその軍は洛川まで出てきましたが、これは行軍路や要害の地、また国家の内情について細かく調査するためなのです。虚実をよく調べて奸計を練り、風塵(内乱)を聞いて国の隙を窺うは、侵攻する上での常道です。今、呉王(慕容垂)が外奔(亡命)しており、敵は彼を謀主となすでしょうから、伍員(伍子胥)の禍に備えなければなりません(楚の伍子胥は災いを避けて呉へ亡命し、後に楚を滅ぼした)。洛陽・并州・壷関の諸城に命じ、増兵して守備を固め、有事に備えられますように」と訴えた。これを受け、慕容暐は慕容評を呼び出してこの事を問うた。だが、慕容評は「秦は弱小であり、我らの力を頼みとしております。それに、苻堅は国交にはそれなりに気を配っております。亡命者(慕容垂)の口車に乗り、交流を断絶するような事はしないでしょう。それより、軽率に動いて相手を警戒させる事が紛争の種となるでしょう」と反論し、結局軍備増強に動く事は無かった。 前秦の黄門郎石越が使者として到来すると、慕容評は前燕の富盛を誇示する為、盛大にもてなした。尚書郎高泰・太傅参軍劉靖は慕容評へ「石越という人物は、その言葉は出鱈目であり、その目は遠くしか見ておりません。あれは友好の使者ではなく、我が国の隙を見つけに来たのでしょう。ここは軍事訓練を派手に見せ、奴らの意気を喪失させるべきかと。豪奢な様を見せつけているだけでは、益々我らを侮ることでしょう」と進言したが、慕容評は従わなかった。高泰はこれに失望し、病気と称して職を辞した。
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