忠興に嫁ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 23:48 UTC 版)
永禄6年(1563年)、越前国で、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれる(次女説もある)。 天正6年(1578年)8月、父の主君・織田信長の発案により細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興に嫁いだ。信長の構想で家臣間の婚姻を統制しており、ここに主君の命令による婚姻「主命婚」が生まれたと考えられる。 なお、信長が8月11日に明智光秀に出した判物がある(『細川家記』)。光秀の軍功を激賛、幽斎の文武兼備を称え、忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚であったことが知られるが、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっていることから偽作の可能性が高い古文書とされている。 天正6年8月、勝龍寺城に輿入れした(『細川家記』)。 天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆、後の長岡休無)が2人の間に生まれた。 勝龍寺城で2年を過ごした後、天正8年8月、夫忠興が丹後12万石を与えられたことから、丹後八幡山城、次いで宮津城に移る。
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