忠興との和解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 22:00 UTC 版)
寛永3年(1626年)、忠興は京都毘沙門町の利休聚楽第屋敷跡にある休無邸を訪問して孫にも初対面し、25年ぶりに休無の勘当を解いたが、休無はその後も京で暮らし続けた。 休無は親戚にも当たる公家衆と親しく、その京都で和歌書『愚問賢注』や能謠、茶の湯などに親しんでいる。また隠居料を扶持されるようになって以降、徐々に京都公家衆との能や茶の湯などの文化活動サロンの長老的存在となった。後には、西園寺左大臣の岳父という立場から朝廷と細川藩を結ぶ役目もしたようである。京都の休無から弟の藩主・細川忠利宛の小倉城への手紙なども散見される。 寛永9年(1632年)に肥後熊本藩に移った忠興は、寛永19年(1642年)に休無を居城の八代城に招いて正式和解し、八代領6万石を与えるので熊本で住むように申し付けたが、休無は固辞して京都に帰った。 正保3年(1646年)に京都で死去、享年67。死去にあたり、忠恒と忠春に計2,000石分、徳(西園寺家御台所)やそのほかの娘たちにも計1,000石分の隠居料相続を遺言し、実行された。
※この「忠興との和解」の解説は、「細川忠隆」の解説の一部です。
「忠興との和解」を含む「細川忠隆」の記事については、「細川忠隆」の概要を参照ください。
- 忠興との和解のページへのリンク