呂不韋陣営
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「キングダムの登場人物一覧」の記事における「呂不韋陣営」の解説
呂不韋(りょふい) 声 - 玄田哲章 演 - 佐藤浩市 秦右丞相→相国。秦の王宮内を竭氏と二分し、権力争いを繰り広げる。昌平君からは、商鞅・范雎に比肩する偉人と評されている。 王弟反乱鎮圧後は、政に代わって政治を執り行っている。後に、丞相よりさらに上の相国という地位に就く。合従軍編後、大王派に勢力争いで押されるも再び逆転。始皇八年には謀略で成蟜を葬り、さらに著雍編の後に、食客に編纂させていた一大書物『呂氏春秋』が完成し公開。 秦国統一編では、毐国の乱を利用して秦国新王になろうと企む。政との対談では、自身の「中華の統治」の持論を語った。そして、政の語る中華統一の真意を聞いた直後に政の成長に思わず涙ぐんだ。そして、咸陽からの知らせで政との長年の政争に敗れたことを受け入れ、その後は罪状について審議中であるため、監視付きではあるが咸陽を自由に出歩きしていた。始皇十年には、相国を罷免され河南での隠居を命じられた。しかし、鄴攻略戦後、肆氏から政争に敗れた竭氏陣営や嫪毐陣営の残党達が続々に自身の元に集まり、朝廷を脅かせれるほどの勢力になっていると報告される。そして、始皇十二年に河南城を訪問した政との会話の1か月後に、毒酒を飲んで自殺したと秦の朝廷に報告があったが実際に死亡したのは別人であり、呂不韋本人は自由の身となる為の偽装自殺を行った後で、愛人達を連れて政の中華統一への道を見届ける為に、馬車に乗って放浪の旅に出た。 李斯(りし) 声 - 青木強 / 奥村翔(第4シリーズ) 呂不韋四柱→政傘下家臣。「法の番人」の異名を持つ。確実さを重視する生真面目な性格のため、呂不韋の考えを理解出来ず振り回されることが多かった。 秦国統一編では、呂不韋を王位につけるために咸陽の守備兵を少なくするという暗躍を行ったことで、咸陽攻防戦後に入牢。しかし翌年に、その存在が不可欠と判断した昌文君の懇願により復帰し、政の側近に加わる。 昌平君(しょうへいくん) 声 - 諏訪部順一 演 - 玉木宏 呂不韋四柱→政傘下家臣。秦軍総司令官兼右丞相。楚公子。得物は矛。蒙武とは幼馴染で親友。軍略家だが、戦場では先陣を切る文武両道の名将。幼少期は蒙武よりも強く、側近の介億には頭脳は李牧級と評される。 山陽編、合従軍編でそれぞれ戦略を完成させ、さらに蕞に迫る李牧軍撃退のため尽力。秦国統一編では、加冠の儀の前に飛信隊に暗号文を送り危機を伝え、咸陽には麾下軍を配置し、加冠の儀が終了した直後に呂不韋陣営から離反。兵一千を率いて咸陽に駆け付け、毐国将軍・ワテギを討ち取り勝利。 始皇十年に李斯復帰直後に、政に鄴攻略を進言し鄴攻略のための戦略を始皇十一年に完成させる。始皇十二年には、対魏方面に派遣している秦軍を対趙方面の最前線へ加勢させる為に、魏国へ三年間の期限付きの同盟を結ぶ為に秦・魏・韓・楚の四国にとっての重要拠点であり楚国の城でもある什虎城を秦軍と魏軍が共闘して陥落させた後で魏国に譲るという条件を、魏国に提案する。 蔡沢(さいたく) 声 - 千田光男 呂不韋四柱→政傘下家臣。「剛成君」という称号を持つ。昭王時代の丞相であり、秦国筆頭外交官として各国の交渉を担当。「強者にのみ仕える」という考え方を持っている。 合従軍編で斉王に謁見し、秦国滅亡で得る利益の概算の倍の値を支払うことを条件に斉の合従軍離脱を成功させた。始皇十年、容態が悪い中で斉王と李牧を咸陽まで招き、政と斉王の会談を実現させ自身も同席した。そして、中華統一後の統治のあり方を問う斉王に対して政が話した「法治国家」という答えに満足し、李牧との会談に向かう政を見送り激励した後、眠るように息を引き取った。 蒙武(もうぶ) 呂不韋四柱。蒙武参照。
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