平陽の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/03/07 04:48 UTC 版)
平陽の戦い(へいようのたたかい)
- 平陽の戦い (紀元前234年)
- 平陽の戦い (576年)
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平陽の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)
紀元前234年、桓齮は平陽に直行した。趙は扈輒を将として平陽を救援に向かわせ、秦軍と戦った。秦軍は十万の趙兵を平陽の城外で斬首し、趙の将である扈輒を討ち取った。 同年、秦軍が邯鄲に迫り趙の幽繆王は北部の国境の防衛を担っていた名将の李牧に南下し趙の全軍を率いて秦軍を攻撃することを命じた。 紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った。この2戦で趙は10万以上の兵を失った。
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