韓と趙の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 02:59 UTC 版)
紀元前236年、趙の鄴を王翦と桓齮・楊端和が落とし、統一戦争が始まった。紀元前234年に桓齮が平陽の戦いで敵将扈輒を討ち取り趙兵10万人を斬首した。紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った。同年、韓の公子(君主の子)である韓非との接見で、法を説かれた政は大いに感服した。しかし、その韓非を自害に追い込んだ李斯が丞相に任じられると、国力増強に貢献した。 しかし、肥下の戦いで桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれた。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた。また、紀元前232年にも番吾の戦いでも李牧に敗れた。 紀元前230年、内史騰が韓を滅ぼした。 紀元前229年、王翦の策により、李牧は誅殺され、司馬尚は更迭された。 紀元前228年、趙を滅ぼした。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で幽繆王の兄の公子嘉を擁立し代国とした。
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