斜陽の趙を守る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 02:11 UTC 版)
閼与の戦いで秦を破った名将趙奢を亡くし、政治外交で秦に対抗し得た藺相如が病で伏せていた趙は、紀元前260年に長平の戦いで秦に大敗し、そののち藺相如も世を去り衰亡の一途をたどっていた。また、紀元前245年に廉頗が楽乗と争い出奔したことから、秦の侵攻が激しくなり、紀元前236年に鄴が秦に奪われ、紀元前234年には趙将扈輒が指揮を執る軍勢が平陽で敗れて、10万人が犠牲になった(平陽の戦い)。そのため、幽繆王は李牧に軍を任せて、反撃に転じることにした。 紀元前233年、北辺の功を認められた李牧は幽繆王の命により、中央に召還され、大将軍に任じられた。 同年、秦が趙の赤麗および宜安を攻めたが、李牧はこれを破り退けた。その際、宜安を攻めた秦将桓齮を肥下の戦いで討っている(あるいは敗走させた)。この功績により、李牧は武安君に封じられた。 紀元前232年、秦は趙の番吾を攻めたが、李牧は秦軍を再び撃破した(番吾の戦い)。さらに、李牧は秦から韓・魏の国境まで領土を奪還し、その勢力を南に押し返した。当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみである。
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