斜陽期 - 死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 03:25 UTC 版)
シャダイターキン以降、藤吉は八大競走制覇から遠ざかり、勝利数の面でも徐々に成績を落としていった。1973年秋の天皇賞では1番人気に推されたハクホオショウが骨折で競走を中止し、斜陽をいっそう印象づけた。また、翌月にはハクホオショウの馬主で、戦後の尾形厩舎を支えた馬主のひとりである西博が死去。同じころ藤吉自身も腰に怪我を負い、その経過が芳しくなく、息子の盛次や孫の充弘が厩舎管理を補佐した。また、藤吉は弟子の保田や盛次の厩舎開業に際して自身の管理馬房を10ずつ割譲し、1975年からは競馬会が調教師1人当たりの管理馬房数削減策を打ち出したことから、さらに管理数を減らしていった。そうした最中の1977年、藤吉はラッキールーラで自身8度目にして最後のダービー優勝を果たした。 1981年9月27日、89歳で死去。息を引き取ってから約15分後に行われたセントライト記念にメジロティターンが優勝したのが最後の重賞勝利となった。なお、一般に藤吉の通算成績は、日本中央競馬会が発足した1954年以降の成績をもって9390戦1670勝とされる、史上最多記録であるが、全国統一された最初の競馬組織である日本競馬会が発足した1937年以降では、14103戦2776勝となる。死後、正六位に叙された。 2004年、日本中央競馬会50周年を記念してホースマンの殿堂にあたる調教師・騎手顕彰者制度が創設され、藤吉は弟子の松山吉三郎とともに調教師部門で選出された。騎手部門では保田隆芳と野平祐二の2名も福永洋一と共に同時選出された。
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