課長昇進 - 撮影所長へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 課長昇進 - 撮影所長への意味・解説 

課長昇進 - 撮影所長へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:50 UTC 版)

岡田茂 (東映)」の記事における「課長昇進 - 撮影所長へ」の解説

1949年借金膨らんだ東横映画東京映画配給太泉映画合併し東映として新しくスタート社長に東急専務経理プロ・大川博が就任し徹底したコスト管理推進同年入社4年目27歳で京撮製作課長抜擢される。また従業員組合委員長にも推され就任撮影所製作課長撮影現場総指揮者である。更に大川社長に呼ばれ今後、製作の予算は私と君で決める。予算オーバーしたら君の責任になる」と高く評価され自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず予算全権握り制作費から役者出演料まで決め実質東映ゼネラルマネージャーのような存在となった大川ソロバン勘定にかけてはプロ中のプロ辣腕だったが、映画の製作に関してズブの素人で、映画企画力無かった1951年の『風にそよぐ葦 前後編』はクレジットにないが岡田プロデュース作で、東映東京撮影所第1作木暮実千代大ファンだった岡田は、木暮自宅日参し出演交渉し、熱血漢岡田木暮好感持ったことから、木暮東映映画によく出るようになった劇場あまりないため東宝系の日劇封切った。当時東映幹部東宝から引抜き遭い岡田誘われた。同年プロデュースした八ツ墓村』は同小説最初映像化1952年京都大学法学部卒ながら、全学連暴れていて大川社長以下、全員反対した山下耕作入社させる。山下入社するやすぐ組合運動始めた同年大川社長より、製作予算の全管理厳命される。1954年から他社先駆け大川断行二本立て興行開始現場多忙極めこの年世界一103本の映画を製作。1940年代後半東宝争議嫌気がさした映画館主が東映系列入ったこともあり、東映専門館(配給網)が増え会社大きく飛躍した当時NHKラジオドラマ人気だった『新諸国物語』の冒険活劇題材中村錦之助大友柳太郎主演の『笛吹童子シリーズ東千代之介主演の『里見八犬伝シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる。時代劇大御所スター揃えていた東映は、“時代劇東映”の地位確固たるものとした。また当時山口組田岡一雄組長マネージメントをし、松竹映画出演していた美空ひばりマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビ大い売り出した1956年には年間配給収入トップとなった1955年アメリカ映画視察で観たシネマスコープ映画製作意欲燃やし1957年他社先駆け東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年マキノ志半ばにして死去。京撮製作部長として“マキノイズム”を推進すると共に徹底した予算管理行い東映時代黄金時代一翼を担う同年忍術御前試合』で沢島忠監督デビューさせた。また監督目指し入社してきた日下部五朗を「体がでかい」という理由無理やりプロデューサー修行させる1960年京撮所長山城新伍主演テレビ制作した『白馬童子』が人気を得ると、将来テレビの普及予想しテレビ制作増やす北大路欣也松方弘樹高校卒業と同時入社させた。1961年中村錦之助 (萬屋錦之介)主演内田吐夢監督宮本武蔵シリーズ」の製作を決める。同年吹き替えスタントマン重要性気づき日本最初スタントマンともいわれる宍戸大全大映から引き抜く第二東映失敗組合運動激化1962年36歳若さ東映取締役東京撮影所長(以下、東撮)に就任する低迷していた東映現代劇を“現代アクション路線”で復活させる。「映画本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下叱咤佐伯孚治鷹森立一というベテラン監督デビューさせた反面当たらない映画作っていたベテラン監督一人残らず切り、深作欣二佐藤純彌降旗康男新東宝から引き抜いた石井輝男渡辺祐介瀬川昌治ら若い才能抜擢したまた、日活にいられなくなった井上梅次誘い暗黒街最後の日』(1962年)など、7本を監督してもらう。石井輝男は「当時岡田さん最高潮で、企画会議ホン脚本)を検討して決めるというスタイルじゃなく、岡田さん一言で製作が決まって会議なしという感じでした」と述べている。 ギャングシリーズを開拓したものの「そもそも日本ギャングなどいない」と、東映を『時代劇路線から俊藤浩滋組んで人生劇場 飛車角』を初めとする任侠映画 路線転換させる日活大映東宝など他社追随し任侠映画1960年代大衆映画最大分野となった。しかし他社テレビ食われて生き詰まってしまったが、“東映任侠路線”だけは、テレビ食われるともなく、当たりに当たった。それに合わせるように、岡田新たに土曜深夜オールナイト興行という上映方式組み、これに観客押し寄せ任侠映画70年安保向けて学生運動盛り上がりとともに高度経済成長管理社会疎外感を抱く学生サラリーマン中心に熱狂的ブーム起こした東宝松竹戦前から不動産持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派不動産もない東映勢い増したのは岡田切り替え戦略よるもの任侠映画と後に手掛ける実録ヤクザ映画抜き1960年代から1970年代日本映画語れない。岡田仕掛けた任侠路線”〜“実録路線”は、その後日本の首領』や、『鬼龍院花子の生涯』などの「女性文芸路線」、『極道の妻たちシリーズに、先の現代アクション”“ハードアクション路線”は、『キイハンター『Gメン'75』や、『ビー・バップ・ハイスクール』や『極道渡世の素敵な面々』などの“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後にVシネマという新ジャンル切り開いていった。岡田企画、製作のみに手腕発揮したではなく、その過程に於いて宣伝面を考慮した側面においても抜群力量発揮した。特に1960年代1970年代の『人生劇場 飛車角』『緋牡丹博徒』『大奥物語』など、任侠映画東映ポルノエログロ映画のタイトル大半岡田考えたのである。『大奥物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田考えたもので、この影響受けて当時新聞週刊誌では「㊙物語」という活字多用した。「今ではどこの企業でも部外秘書類に㊙というハンコ押しているのだから、著作料をもらいたいぐらい」と話している。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが山田五十鈴佐久間良子藤純子スター女優起用して大当たりした。『大奥物語』はブーム呼びその後大奥物は、この作品衣装小道具モデルになり、エッセンス受け継がれ、現在もテレビドラマ等に繋がる。1964年の『二匹の牝犬』では文学座小川眞由美六本木遊んでいた緑魔子を組ませた。同年中島貞夫命じて撮らせた『くの一忍法』は、山田風太郎原作の『くノ一忍法帖最初映像化東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田浩二を『人生劇場 飛車角』で、燻っていた高倉健を『日本侠客伝』『網走番外地』で、若山富三郎を『極道シリーズで、そして『不良番長シリーズ梅宮辰夫売り出す筋金入り清純派佐久間良子の裸のシーン売り物田坂具隆監督で『五番町夕霧楼』を大ヒットさせた。本作は京の廓の内情初め公にした作品として話題呼んだ内田吐夢監督に撮らせた『飢餓海峡』(1965年)も岡田企画1964年大川の命で時代劇衰退した京撮所長に再び戻る。京撮所長復帰する際、大川から「京都ガタガタなりそうだからお前が京都行ってくれない東映そのものおかしくなると言われ、「それならすべて私に任せて下さい荒治療しますけどいいですね」と大川から指揮権移譲承認取り付け、京撮所所長に就任岡田反対したが大川1960年第二東映1年後ニュー東映改称)を作り大失敗。この時、作品量産のため撮影所臨時雇用の過剰人員増加させてしまい大きな負担となっていた。岡田東映京都作品企画全ての決定権持ち大川社長からの全権委任を盾に、揉め揉めたものの大リストラ断行し2100人いた人員一気900人に減らした。また年間の製作本数100本から60本に減らした京都撮影所撮影する映画任侠映画とし、映画での時代劇制作中止するという路線大転換遂行テレビ重視舵を切る。京撮で製作され任侠映画第一作1964年高倉健主演作日本侠客伝』。時代劇本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血必要だったが、断々乎としてこれを実行陣頭指揮体を張って突き進んだ時代の変化的確に対応し、他の映画会社軽視していたテレビの世界いち早く目を付け時代劇テレビのみで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクション設立して社長兼任ギャラの高い役者監督説得しここへ移ってもらった。さらに東撮に配置転換したり、助監督東映テレビ東映動画異動させるなどで、テレビ時代劇映画と並ぶ事業となる素地作り会社危機乗り切った大監督や大スター受け入れてくれた事でテレビ映画地位高まった。大リストラ撮影所余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたわけであるが、当時1964年東京オリンピック前後して急激にテレビ普及しテレビ界の製作力の補充急務だったというラッキーな面があった。こうしたテレビとの連携は、今日映画テレビ協調路線流れつくった。ただ、この大リストラ多く才能失われた東映動画については「動画リストラをして初め気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人作業ということだ。それが並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才社外飛び出して自分プロダクションつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている。 ギャンブル性の強い映画違いテレビは局から予算が予め出されるため計算が立つ。何よりテレビ製作に求められる早く安く面白く」は東映京都の最も得意とするところであった。また東映京都テレビ東映京都制作所(のち太秦映像)だけでなく、京撮本体でもテレビ時代劇受注開始させ「お前らこれからテレビで食っていけ」という岡田指示の下、京撮は各テレビ局からテレビ時代劇制作請け負い量産体制入っていく。テレビ映画本格的に参入図った岡田は、特に関西テレビ関係キーパーソン積極的に起用した当時電通大支社企画室長だった入江雄三を介して関西テレビ芝田研三副社長東映テレビ次長渡邊亮徳引き合わせた。「子供ものの時代劇で何かおもしろいものを作ってくれ」と岡田から出され要望により、東映子供向け時代劇として最初に企画されたのが『大忍術映画ワタリ』で、時代劇特撮プラスした『仮面の忍者 赤影』は、紆余曲折あってこの流れから生まれたもの。ここから栗塚旭の『新選組血風録』、近衛十四郎の『素浪人 月影兵庫』、『柳生武芸帳』、大川橋蔵の『銭形平次』、杉良太郎高橋英樹の『遠山の金さん』、高橋英樹の『桃太郎侍』などを生み、映画スタッフテレビ進出先駆けとなった大川テレビ映画口説いたのは岡田で『銭形平次』は、東映フジテレビに道をつけた作品。このシリーズが当たり、テレビ時代劇軌道に乗った当時フジテレビは虫プロ作品独占的に放送していたが『銭形平次』の成功が、テレビ『ゲゲゲの鬼太郎』以降に繋がる。1969年から始まった『水戸黄門』は、松下電器広報課長だった逸見稔から協力依頼され製作を受注したもの。本作岡田1967年発足した東映京都制作所(のち太秦映像)が製作した。『銭形平次』と『水戸黄門』で、テレビ映画制作活況呈した。その他、1968年テレビドラマ『大奥』は、岡田企画した映画大奥物語』から、奥様受けするため、エログロ外して硬い内容にして、スター級女優総動員させ時代劇絵巻変えたもので、初め取り上げた女性時代劇ともいわれ、映画テレビ連動したのも、これが最初といわれる。「日本中の女性の涙を絞り出したい」と渡辺岳夫テーマ曲依頼した当時関西テレビは、いつもフジテレビやられて、いい作品一本もなかった。関西テレビからは、「この㊙だけは困る。題名は㊙はやめて大奥』だけにしてくれ」と言われたという。『大奥』は、フジテレビ系その後何度もドラマ化され、その後長谷川伸シリーズ』、松平健の『暴れん坊将軍』、千葉真一の『影の軍団シリーズ』など、主として異色時代劇分野開拓した当時他の映画会社テレビ消極的で、1980年代半ばには、東映京都製作のテレビ時代劇テレビ各局に広がりシェア90%近く占めその後も高いシェア占め大きなとなった。これらの施策東映映画斜陽期乗りきったが、これが今日テレビ局ディレクターが、テレビドラマ感覚映画監督するなどテレビ局主導映画製作という逆転現象生む遠因になったとする見方もある。 東映この年東急グループ離脱した一方で映画では、京都でも任侠路線転換し北島三郎の『兄弟仁義』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた。俊プロデューサーの娘・藤純子映画界入りさせたのも岡田である。1966年42歳若さ東映常務取締役。これについて大川博は「私は岡田茂今田智憲二人才能を買い、30代東映取締役登用し40歳を越すや常務昇格させ、思う存分に腕を振るわせた」と述べている。同年借金松竹クビになった藤山寛美一時東映に籍を置かせる1967年松竹にいた菅原文太東映移籍させ、安藤昇東映出演させた。1969年渡瀬恒彦スカウト。「近い将来東映映画部門担って大川社長支え両輪となる人物は、製作は岡田茂営業今田智憲を措いてほかにいない」とかねて呼び声高かった1968年5月、共に44歳若さ岡田が製作の最高責任者企画製作本部長京都撮影所長、今田営業最高責任者営業本部長兼興行部長就任次いで同年秋、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長就任した大川博は「大衆求め刺激の強い映画作ることで企業安定させることが先決命題で、岡田映画本部長がその命題沿って徹底した企画立てている。岡田本部長権限は、いわば一つ映画会社社長立場匹敵する自分思い通りに意思統一ができるわけで大変な権限です」と述べている。岡田音頭取った所謂東映ポルノエログロ路線好色路線」が、この前後から本格化した。1971年テレビ本部長兼務し映像製作部門の全権掌握。また33歳若さ専務になっていた大川息子・毅がボウリングタクシーホテルなどの事業拡大失敗大川親子斜陽化する映画事業から、ボウリング主体とする娯楽会社脱皮させようとしていた。これに労組硬化し、部課長連合大川社長に反旗掲げ六・七十人が所有。毅は労組吊るし上げ恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって竹井博友ら、労使問題プロも断るような労組担当引き受ける。この窮地ロックアウト決行し何とか乗り切った大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は毅というのは既定路線で、今田智憲大川見切りをつけ東映辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが周囲から「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった同年8月大川社長死去。毅から「東映引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また五島昇推しもあって社長に就任する東映動画(現・東映アニメーション会長兼任常務から三段跳びでの社長就任であった社長に就任するやいなや不良部門スパッと切り素早く合理化推進した東京タワータクシーを営業停止に、不採算東映フライヤーズ日拓ホーム譲渡、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営していた東映ボウリングセンター32か所の大半売却した1972年6月東映動画経営企画室長の登石雋一社長に派遣、ほぼ半数に当たる150名の希望退職者を募集させ紛糾した。「動画東映ガンだ。ガン放置しておいたら、やがて病巣東映全身広がるガン小さいうちに切開手術するのが医者経営者)の義務だ」と暴言吐いた。この時異動したスタッフ本社本編憎しルサンチマンがのちに東映テレビアニメ躍進原動力となった同年7月幸田清を東京撮影時所長抜擢その後組織スリム化断行した一方でボウリング代わる新規事業として住宅産業進出建売住宅不動産分譲マンションパチンコ店事業にも進出した他、劇場建て替えを含む再開発プロジェクト手掛けたまた、ホテルチェーンやゴルフ場建設拡大させるなど事業再構築行った

※この「課長昇進 - 撮影所長へ」の解説は、「岡田茂 (東映)」の解説の一部です。
「課長昇進 - 撮影所長へ」を含む「岡田茂 (東映)」の記事については、「岡田茂 (東映)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「課長昇進 - 撮影所長へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「課長昇進 - 撮影所長へ」の関連用語

課長昇進 - 撮影所長へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



課長昇進 - 撮影所長へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの岡田茂 (東映) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS