課長昇進 - 撮影所長へ
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「岡田茂 (東映)」の記事における「課長昇進 - 撮影所長へ」の解説
1949年、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し東映として新しくスタート。社長には東急専務で経理のプロ・大川博が就任し、徹底したコスト管理を推進。同年入社4年目、27歳で京撮製作課長に抜擢される。また従業員組合委員長にも推されて就任。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映のゼネラルマネージャーのような存在となった。大川はソロバン勘定にかけてはプロ中のプロの辣腕だったが、映画の製作に関してはズブの素人で、映画の企画力は無かった。1951年の『風にそよぐ葦 前後編』はクレジットにないが岡田のプロデュース作で、東映東京撮影所の第1作。木暮実千代の大ファンだった岡田は、木暮の自宅に日参して出演交渉し、熱血漢の岡田に木暮が好感を持ったことから、木暮は東映の映画によく出るようになった。劇場があまりないため東宝系の日劇で封切った。当時東映の幹部が東宝から引抜きに遭い、岡田も誘われた。同年プロデュースした『八ツ墓村』は同小説最初の映像化。1952年、京都大学法学部卒ながら、全学連で暴れていて大川社長以下、全員が反対した山下耕作を入社させる。山下は入社するやすぐ組合運動を始めた。同年、大川社長より、製作予算の全管理を厳命される。1954年から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。1940年代後半の東宝争議で嫌気がさした映画館主が東映系列に入ったこともあり、東映の専門館(配給網)が増え会社は大きく飛躍した。 当時のNHKのラジオドラマで人気だった『新諸国物語』の冒険活劇を題材に中村錦之助、大友柳太郎主演の『笛吹童子』シリーズ、東千代之介主演の『里見八犬伝』シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、山口組の田岡一雄組長がマネージメントをし、松竹映画に出演していた美空ひばりをマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した。1956年には年間配給収入でトップとなった。 1955年、アメリカ映画視察で観たシネマスコープ映画製作に意欲を燃やし1957年、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年、マキノが志半ばにして死去。京撮製作部長として“マキノイズム”を推進すると共に、徹底した予算管理を行い、東映時代劇黄金時代の一翼を担う。同年『忍術御前試合』で沢島忠を監督デビューさせた。また監督を目指して入社してきた日下部五朗を「体がでかい」という理由で無理やりプロデューサー修行させる。1960年京撮所長。山城新伍主演でテレビ制作した『白馬童子』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす。北大路欣也と松方弘樹を高校卒業と同時に入社させた。1961年、中村錦之助 (萬屋錦之介)主演・内田吐夢監督「宮本武蔵シリーズ」の製作を決める。同年、吹き替え・スタントマンの重要性に気づき、日本最初のスタントマンともいわれる宍戸大全を大映から引き抜く。第二東映の失敗で組合運動が激化。1962年、36歳の若さで東映取締役 兼東京撮影所長(以下、東撮)に就任すると低迷していた東映現代劇を“現代アクション路線”で復活させる。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。佐伯孚治、鷹森立一というベテランを監督デビューさせた反面、当たらない映画を作っていたベテラン監督を一人残らず切り、深作欣二、佐藤純彌、降旗康男や新東宝から引き抜いた石井輝男、渡辺祐介、瀬川昌治ら若い才能を抜擢した。また、日活にいられなくなった井上梅次を誘い『暗黒街最後の日』(1962年)など、7本を監督してもらう。石井輝男は「当時は岡田さんが最高潮で、企画会議でホン(脚本)を検討して決めるというスタイルじゃなく、岡田さんの一言で製作が決まって、会議なしという感じでした」と述べている。 ギャングシリーズを開拓したものの「そもそも日本にギャングなどいない」と、東映を『時代劇』路線から俊藤浩滋と組んで『人生劇場 飛車角』を初めとする任侠映画 路線に転換させる。日活、大映、東宝など他社も追随し、任侠映画は1960年代の大衆映画の最大の分野となった。しかし他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、“東映任侠路線”だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。それに合わせるように、岡田は新たに土曜深夜のオールナイト興行という上映方式を組み、これに観客が押し寄せ、任侠映画は70年安保に向けて学生運動の盛り上がりとともに、高度経済成長・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした。東宝、松竹は戦前から不動産を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの。任侠映画と後に手掛ける実録ヤクザ映画抜きに1960年代から1970年代の日本映画は語れない。岡田の仕掛けた“任侠路線”〜“実録路線”は、その後『日本の首領』や、『鬼龍院花子の生涯』などの「女性文芸路線」、『極道の妻たち』シリーズに、先の“現代アクション”“ハードアクション路線”は、『キイハンター』『Gメン'75』や、『ビー・バップ・ハイスクール』や『極道渡世の素敵な面々』などの“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後にVシネマという新ジャンルを切り開いていった。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した。特に1960年代、1970年代の『人生劇場 飛車角』『緋牡丹博徒』『大奥㊙物語』など、任侠映画、東映ポルノ/エログロ映画のタイトルの大半は岡田が考えたものである。『大奥㊙物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので、この影響を受けて、当時の新聞や週刊誌では「㊙物語」という活字を多用した。「今ではどこの企業でも部外秘の書類に㊙というハンコを押しているのだから、著作料をもらいたいぐらい」と話している。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが山田五十鈴、佐久間良子、藤純子らスター女優を起用して大当たりした。『大奥㊙物語』はブームを呼び、その後の大奥物は、この作品の衣装や小道具がモデルになり、エッセンスは受け継がれ、現在もテレビドラマ等に繋がる。1964年の『二匹の牝犬』では文学座の小川眞由美と六本木で遊んでいた緑魔子を組ませた。同年中島貞夫に命じて撮らせた『くの一忍法』は、山田風太郎原作の『くノ一忍法帖』最初の映像化。東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田浩二を『人生劇場 飛車角』で、燻っていた高倉健を『日本侠客伝』『網走番外地』で、若山富三郎を『極道』シリーズで、そして『不良番長』シリーズで梅宮辰夫を売り出す。筋金入りの清純派、佐久間良子の裸のシーンを売り物に田坂具隆監督で『五番町夕霧楼』を大ヒットさせた。本作は京の廓の内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ。内田吐夢監督に撮らせた『飢餓海峡』(1965年)も岡田の企画。 1964年、大川の命で時代劇の衰退した京撮所長に再び戻る。京撮所長に復帰する際、大川から「京都がガタガタになりそうだからお前が京都に行ってくれないと東映そのものがおかしくなる」と言われ、「それならすべて私に任せて下さい。荒治療しますけどいいですね」と大川から指揮権移譲の承認を取り付け、京撮所所長に就任。岡田は反対したが大川は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を作り大失敗。この時、作品量産のため撮影所に臨時雇用の過剰人員を増加させてしまい大きな負担となっていた。岡田は東映京都作品の企画の全ての決定権を持ち、大川社長からの全権委任を盾に、揉めに揉めたものの大リストラを断行し、2100人いた人員を一気に900人に減らした。また年間の製作本数を100本から60本に減らした。京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行、テレビ重視に舵を切る。京撮で製作された任侠映画第一作が1964年高倉健の主演作『日本侠客伝』。時代劇の本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血が必要だったが、断々乎としてこれを実行、陣頭指揮し体を張って突き進んだ。時代の変化に的確に対応し、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目を付け、時代劇はテレビのみで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった。さらに東撮に配置転換したり、助監督を東映テレビや東映動画へ異動させるなどで、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作り、会社の危機を乗り切った。大監督や大スターも受け入れてくれた事でテレビ映画の地位は高まった。大リストラで撮影所の余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたわけであるが、当時1964年東京オリンピックを前後して、急激にテレビが普及し、テレビ界の製作力の補充が急務だったというラッキーな面があった。こうしたテレビとの連携は、今日の映画・テレビ協調路線の流れをつくった。ただ、この大リストラで多くの才能も失われた。東映動画については「動画のリストラをして初めて気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人の作業だということだ。それが机を並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才が社外に飛び出して自分のプロダクションをつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている。 ギャンブル性の強い映画と違い、テレビは局から予算が予め出されるため計算が立つ。何よりテレビ製作に求められる「早く安く面白く」は東映京都の最も得意とするところであった。また東映京都テレビや東映京都制作所(のち太秦映像)だけでなく、京撮本体でもテレビ時代劇の受注を開始させ「お前ら、これからはテレビで食っていけ」という岡田の指示の下、京撮は各テレビ局からテレビ時代劇の制作を請け負い、量産体制に入っていく。テレビ映画に本格的に参入を図った岡田は、特に関西のテレビ関係のキーパーソンを積極的に起用した。当時、電通大阪支社企画室長だった入江雄三を介して関西テレビの芝田研三副社長と東映テレビ次長・渡邊亮徳を引き合わせた。「子供ものの時代劇で何かおもしろいものを作ってくれ」と岡田から出された要望により、東映で子供向けの時代劇として最初に企画されたのが『大忍術映画ワタリ』で、時代劇に特撮をプラスした『仮面の忍者 赤影』は、紆余曲折あってこの流れから生まれたもの。ここからは栗塚旭の『新選組血風録』、近衛十四郎の『素浪人 月影兵庫』、『柳生武芸帳』、大川橋蔵の『銭形平次』、杉良太郎、高橋英樹の『遠山の金さん』、高橋英樹の『桃太郎侍』などを生み、映画スタッフのテレビ進出の先駆けとなった。大川をテレビ映画に口説いたのは岡田で『銭形平次』は、東映がフジテレビに道をつけた作品。このシリーズが当たり、テレビ時代劇も軌道に乗った。当時フジテレビは虫プロ作品を独占的に放送していたが『銭形平次』の成功が、テレビ版『ゲゲゲの鬼太郎』以降に繋がる。1969年から始まった『水戸黄門』は、松下電器の広報課長だった逸見稔から協力を依頼され製作を受注したもの。本作は岡田が1967年発足した東映京都制作所(のち太秦映像)が製作した。『銭形平次』と『水戸黄門』で、テレビ映画の制作は活況を呈した。その他、1968年のテレビドラマ『大奥』は、岡田が企画した映画『大奥㊙物語』から、奥様受けするため、エログロを外して硬い内容にして、スター級の女優を総動員させ時代劇絵巻に変えたもので、初めて取り上げた女性時代劇ともいわれ、映画とテレビが連動したのも、これが最初といわれる。「日本中の女性の涙を絞り出したい」と渡辺岳夫にテーマ曲を依頼した。当時関西テレビは、いつもフジテレビにやられて、いい作品が一本もなかった。関西テレビからは、「この㊙だけは困る。題名は㊙はやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われたという。『大奥』は、フジテレビ系でその後何度もドラマ化され、その後『長谷川伸シリーズ』、松平健の『暴れん坊将軍』、千葉真一の『影の軍団シリーズ』など、主として異色時代劇の分野を開拓した。当時他の映画会社はテレビに消極的で、1980年代半ばには、東映京都製作のテレビ時代劇はテレビ各局に広がり、シェアの90%近くを占め、その後も高いシェアを占め大きな柱となった。これらの施策で東映は映画の斜陽期を乗りきったが、これが今日のテレビ局ディレクターが、テレビドラマ感覚で映画を監督するなどテレビ局主導の映画製作という逆転現象を生む遠因になったとする見方もある。 東映はこの年、東急グループを離脱した。一方で映画では、京都でも任侠路線に転換し北島三郎の『兄弟仁義』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。1966年、42歳の若さで東映常務取締役。これについて大川博は「私は岡田茂と今田智憲の二人の才能を買い、30代で東映の取締役に登用し、40歳を越すや常務に昇格させ、思う存分に腕を振るわせた」と述べている。同年借金で松竹をクビになった藤山寛美を一時東映に籍を置かせる。1967年、松竹にいた菅原文太を東映に移籍させ、安藤昇を東映出演させた。1969年、渡瀬恒彦をスカウト。「近い将来、東映の映画部門を担って大川社長を支える両輪となる人物は、製作は岡田茂、営業は今田智憲を措いてほかにいない」とかねて呼び声が高かったが1968年5月、共に44歳の若さで岡田が製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長、今田は営業の最高責任者・営業本部長兼興行部長に就任。次いで同年秋、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任した。大川博は「大衆が求める刺激の強い映画を作ることで企業を安定させることが先決命題で、岡田映画本部長がその命題に沿って徹底した企画を立てている。岡田本部長の権限は、いわば一つの映画会社の社長の立場に匹敵する。自分の思い通りに意思統一ができるわけで大変な権限です」と述べている。岡田が音頭を取った所謂「東映ポルノ/エログロ路線、好色路線」が、この前後から本格化した。1971年テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅がボウリング、タクシー、ホテルなどの事業拡大に失敗。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする娯楽会社に脱皮させようとしていた。これに労組が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が株を所有。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって竹井博友ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける。この窮地をロックアウトを決行し何とか乗り切った。 大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は毅というのは既定路線で、今田智憲も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが周囲から「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が死去。毅から「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また五島昇の推しもあって社長に就任する。東映動画(現・東映アニメーション)会長兼任。常務から三段跳びでの社長就任であった。社長に就任するやいなや不良部門をスパッと切り素早く合理化を推進した。東京タワータクシーを営業停止に、不採算の東映フライヤーズを日拓ホームに譲渡、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営していた東映ボウリングセンター32か所の大半を売却した。1972年6月、東映動画に経営企画室長の登石雋一を社長に派遣、ほぼ半数に当たる150名の希望退職者を募集させ紛糾した。「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と暴言を吐いた。この時異動したスタッフの本社・本編憎しのルサンチマンがのちに東映のテレビ、アニメ躍進の原動力となった。同年7月、幸田清を東京撮影時所長に抜擢。その後も組織のスリム化を断行した。一方で、ボウリングに代わる新規事業として住宅産業に進出、建売住宅・不動産分譲、マンション、パチンコ店事業にも進出した他、劇場の建て替えを含む再開発プロジェクトを手掛けた。また、ホテルチェーンやゴルフ場建設を拡大させるなど事業の再構築を行った。
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