東映任侠路線とは? わかりやすく解説

東映任侠路線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 13:45 UTC 版)

ヤクザ映画」の記事における「東映任侠路線」の解説

1964年岡田茂東映京都撮影所(以下、東映京都所長復帰すると同撮影所リストラ進め不振の続く従来型時代劇テレビ移し時代劇映画からヤクザ映画任侠映画路線転換を行う。東映東京成功した任侠路線東映京都改革切り札として持ち込み、その任侠大路線として、初の本格的ヤクザ映画鶴田浩二主演博徒シリーズ」と高倉健主演日本侠客伝シリーズ」を企図した。『映画ジャーナル』は1965年10月号で「東映岡田茂は、沈滞した京都でひとり奮闘し鶴田浩二高倉健主軸新時代劇ともいうべき明治大正ものを生み出して近年稀なヒットシリーズを連作し気を吐いている」と評されている。同号は岡田鈴木成大プロデューサーとの対談であるが、岡田は「ぼくが京都撮影所所長になって時代劇ファン呼び戻そうと、いろいろテを替え品を替えやってみたんですが、どうも結果よくない。それで大映『座頭市』というヒット時代劇見て、『これはほんとう時代劇なのだろうか、非常に特殊な作品系列属するものでないか』などと考えたんです。それで思い切って時代明治大正求めてやってみた。『日本侠客伝』や『関東流れ者のような大正やくざは、時代劇だという観念作ったわけです」などと述べている。これらは大成功し、次々人気任侠シリーズ生まれ観客動員No.1返り咲き興行的に成功した。こうして東映自ら一連の企画を「やくざ路線」と呼称しはじめた。この東映任侠路線の成功他社にも波及し、その数が急増するにつれて、この「やくざ路線」的な企画他社にも波及しはじめたとき、ジャーナリズムがそれらを一括してやくざ映画」と呼びはじめたのであるそれまで、この呼称戦前派侠客映画指しており、明治から昭和初期まで時代侠客主人公として映画も既に存在していたが、かくも大量に作られはじめたのは日本映画史上、はじめてである。この名称が定着すると、それはヤクザ者を主人公とするあらゆる映画への適用範囲広げ以前は「股旅映画」と呼ばれていた類の時代劇から、戦後背景としたギャング映画不良少年映画でも、ヤクザ映画呼ばれるようになったのが、1970年以降東映中心とした1960年代の「やくざ映画」は「任侠映画」と呼ばれるが、「任侠映画」という呼称1970年前後文献見られる1966年大手新聞ヤクザ映画誌上批判して結局映画の題名新聞発行部数だけ撒き散らすことになり、ヤクザ映画利するだけという判断に立ち、ヤクザ映画批評一切しないという密約交わしヤクザ映画はエロダクション並みミニコミ扱い受けた。この処置腹を立てた東映は、「それならヤクザ映画試写会一切やらない」と開き直った今日試写会状況分からないが、1990年代ぐらいまでは、新聞記者映画評論家各社新作試写タダ見て、その引き換えとして新聞や雑誌記事載せていたため、東映ヤクザ映画好きな映画評論家はもとの庶民戻りゼニコ払ってヤクザ映画を見なければならなくなった1973年に『仁義なき戦い』が封切られると、義理人情に厚いヤクザではなく利害得失で動く現実的なヤクザ社会を描く映画を「実録シリーズ、または実録ヤクザ映画」と呼びそれまでヤクザ映画を“任侠映画”と区別されるようになった。"任侠映画"というと今日東映作品を指すケース多く1960年代始まって同年代後半にはプログラムピクチャー過半占めるまでに繁栄し1970年代になると衰退していった特殊な映画ジャンルを指す。1973年に『仁義なき戦い』が大ヒットして以降実話元にした映画を"実録シリーズ"、"実録ヤクザ映画"などと呼んだため、これらと区別するため、それまで実話でないヤクザ映画を"任侠映画"と呼ぶようになった例外もあるが、東映の"任侠映画"は、大正明治時代舞台にしているため、登場人物着流しが多いが、"実録映画"は昭和の戦後舞台にするため着流しではなくスーツなどの洋服が多い。これらはほぼ全て岡田茂(元東映社長)と俊藤浩滋の両プロデューサーによって製作された。 任侠路線通常明治から昭和初め時代背景とし、着流し姿の主人公ががまんを重ねて最後に義理人情駆られて仇討ちに行くというほぼ似通った筋立てで、『人生劇場 飛車角シリーズ始まって、『博徒』、『日本侠客伝』、『関東流れ者』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』、『兄弟仁義』、『博奕打ち』、『緋牡丹博徒』、『日本女侠伝』の各シリーズ頂点迎えた俳優鶴田浩二高倉健藤純子北島三郎村田英雄らが主役になり、池部良若山富三郎田中邦衛待田京介丹波哲郎嵐寛寿郎安部徹松方弘樹梅宮辰夫大原麗子三田佳子佐久間良子らが脇を添えたマキノ雅弘佐伯清加藤泰小沢茂弘石井輝男山下耕作らがメガホン取った任侠路線当時サラリーマン職人から本業ヤクザ学生運動闘士たちにまで人気があり、「一日運動が終わると映画館直行し映画喝さい送った」という学生もいた。『博奕打ちシリーズ第4作博奕打ち 総長賭博』は三島由紀夫絶賛された。また大島渚山田太一倉本聰らも東映任侠映画ファンだったと話している。柏原寛司は「メイン高倉健さん、鶴田浩二さんがいて、ゲスト嵐寛寿郎とか北島三郎とか、みんな立てて見せ場作って徐々に整理していって、最後メイン対決にいく。すごいテクニック。東映任侠映画は、プロシナリオ術の基本」と述べている。

※この「東映任侠路線」の解説は、「ヤクザ映画」の解説の一部です。
「東映任侠路線」を含む「ヤクザ映画」の記事については、「ヤクザ映画」の概要を参照ください。

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