東映任侠路線
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翌1964年に岡田茂が東映京都撮影所(以下、東映京都)所長に復帰すると同撮影所のリストラを進め、不振の続く従来型の時代劇はテレビに移し、時代劇映画からヤクザ映画(任侠映画)路線の転換を行う。東映東京で成功した任侠路線を東映京都改革の切り札として持ち込み、その任侠二大路線として、初の本格的ヤクザ映画、鶴田浩二主演「博徒シリーズ」と高倉健主演「日本侠客伝シリーズ」を企図した。『映画ジャーナル』は1965年10月号で「東映の岡田茂は、沈滞した京都でひとり奮闘し、鶴田浩二、高倉健を主軸に新時代劇ともいうべき明治・大正ものを生み出して、近年稀なヒットシリーズを連作して気を吐いている」と評されている。同号は岡田と鈴木炤成大映プロデューサーとの対談であるが、岡田は「ぼくが京都の撮影所所長になって、時代劇ファンを呼び戻そうと、いろいろテを替え品を替えやってみたんですが、どうも結果がよくない。それで大映の『座頭市』というヒット時代劇を見て、『これはほんとうの時代劇なのだろうか、非常に特殊な作品系列に属するものでないか』などと考えたんです。それで思い切って、時代を明治、大正に求めてやってみた。『日本侠客伝』や『関東流れ者』のような大正やくざは、時代劇だという観念で作ったわけです」などと述べている。これらは大成功し、次々に人気任侠シリーズが生まれ、観客動員No.1に返り咲き、興行的にも成功した。こうして東映自ら一連の企画を「やくざ路線」と呼称しはじめた。この東映任侠路線の成功が他社にも波及し、その数が急増するにつれて、この「やくざ路線」的な企画が他社にも波及しはじめたとき、ジャーナリズムがそれらを一括して「やくざ映画」と呼びはじめたのである。 それまで、この呼称は戦前派侠客の映画を指しており、明治から昭和初期までの時代の侠客を主人公として映画も既に存在していたが、かくも大量に作られはじめたのは日本映画史上、はじめてである。この名称が定着すると、それはヤクザ者を主人公とするあらゆる映画への適用範囲を広げ、以前は「股旅映画」と呼ばれていた類の時代劇から、戦後を背景としたギャング映画や不良少年映画までも、ヤクザ映画と呼ばれるようになったのが、1970年以降。東映を中心とした1960年代の「やくざ映画」は「任侠映画」と呼ばれるが、「任侠映画」という呼称は1970年前後の文献に見られる。 1966年、大手新聞がヤクザ映画を誌上で批判しても結局、映画の題名を新聞の発行部数だけ撒き散らすことになり、ヤクザ映画に利するだけという判断に立ち、ヤクザ映画の批評を一切しないという密約を交わし、ヤクザ映画はエロダクション並みにミニコミ扱いを受けた。この処置に腹を立てた東映は、「それならヤクザ映画の試写会は一切やらない」と開き直った。今日の試写会状況は分からないが、1990年代ぐらいまでは、新聞記者や映画評論家は各社の新作の試写をタダで見て、その引き換えとして新聞や雑誌に記事を載せていたため、東映のヤクザ映画が好きな映画評論家はもとの庶民に戻り、ゼニコを払ってヤクザ映画を見なければならなくなった。 1973年に『仁義なき戦い』が封切られると、義理人情に厚いヤクザではなく、利害得失で動く現実的なヤクザ社会を描く映画を「実録シリーズ、または実録ヤクザ映画」と呼び、それまでのヤクザ映画を“任侠映画”と区別されるようになった。"任侠映画"というと今日東映作品を指すケースも多く、1960年代に始まって同年代後半にはプログラムピクチャーの過半を占めるまでに繁栄し、1970年代になると衰退していった特殊な映画ジャンルを指す。1973年に『仁義なき戦い』が大ヒットして以降の実話を元にした映画を"実録シリーズ"、"実録ヤクザ映画"などと呼んだため、これらと区別するため、それまでの実話でないヤクザ映画を"任侠映画"と呼ぶようになった。例外もあるが、東映の"任侠映画"は、大正や明治時代を舞台にしているため、登場人物は着流しが多いが、"実録映画"は昭和の戦後を舞台にするため着流しではなく、スーツなどの洋服が多い。これらはほぼ全て岡田茂(元東映社長)と俊藤浩滋の両プロデューサーによって製作された。 任侠路線は通常は明治から昭和初めを時代背景とし、着流し姿の主人公ががまんを重ねて最後に義理人情に駆られて仇討ちに行くというほぼ似通った筋立てで、『人生劇場 飛車角』シリーズに始まって、『博徒』、『日本侠客伝』、『関東流れ者』、『網走番外地』、『昭和残侠伝』、『兄弟仁義』、『博奕打ち』、『緋牡丹博徒』、『日本女侠伝』の各シリーズで頂点を迎えた。俳優は鶴田浩二・高倉健・藤純子・北島三郎、村田英雄らが主役になり、池部良・若山富三郎・田中邦衛・待田京介・丹波哲郎・嵐寛寿郎・安部徹・松方弘樹・梅宮辰夫、大原麗子・三田佳子・佐久間良子らが脇を添えた。マキノ雅弘・佐伯清・加藤泰・小沢茂弘・石井輝男・山下耕作らがメガホンを取った。任侠路線は当時、サラリーマン・職人から本業のヤクザ・学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝さいを送った」という学生もいた。『博奕打ち』シリーズ第4作『博奕打ち 総長賭博』は三島由紀夫に絶賛された。また大島渚や山田太一、倉本聰らも東映任侠映画のファンだったと話している。柏原寛司は「メインの高倉健さん、鶴田浩二さんがいて、ゲストに嵐寛寿郎とか北島三郎とか、みんな立てて見せ場を作って、徐々に整理していって、最後、メインの対決にいく。すごいテクニック。東映の任侠映画は、プロのシナリオ術の基本」と述べている。
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