母・喜美枝との二人三脚時代とは? わかりやすく解説

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母・喜美枝との二人三脚時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:41 UTC 版)

美空ひばり」の記事における「母・喜美枝との二人三脚時代」の解説

1963年喜美岡田茂に「お嬢これから生き方についてどう思う?」と相談した。ひばりはそれまで銀幕中心に活躍し東映専属として東映時代劇を支えていたが、岡田は既に東映時代劇から現代劇中心に転換したいという考え持っていたから「ひばりちゃん時代劇リアリズムからかけ離れたところが大衆にとって魅力現代劇では魅力発揮できないと思う。これからテレビ舞台だろう」と進言した。浅草国際劇場での正月公演の客入り悪くなっていたことから、喜美がひばりの再出発として新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演田岡相談せず決めたため、浅草公演仕切っていた田岡逆鱗触れ岡田泣きつき何とか田岡怒り鎮めた揉め事が起こると喜美決まって岡田頼った。さらに喜美は、岡田新宿コマ舞台演出気心知れた沢島忠希望した。しかし沢島は当時岡田と共に東映任侠路線の扉を開いた東映専属契約を結ぶメイン監督である。当時五社協定があり、東宝系の新宿コマでの長期公演仕事など無理難題であった喜美は娘の為なら、たとえ火の中水の中というような人で、これも岡田尽力で何とか沢島の貸し出し決まり東映メイン監督一人だった沢島は、これを切っ掛けにひばりの座付き作者のようになって映画界から遠ざかった1964年5月新宿コマ劇場で初の座長公演を行う。それまで歌だけのステージ芝居加え舞台公演第一であった演技者としての活動の場次第映画から舞台移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋御園座大阪梅田コマ劇場にて長年にわたり座長張り続けた離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美だった。ひばりは傍ら喜美従えて日本全国コンサート会場テレビ出演など精力的に活動した当時マスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネーム付けられた。 1970年8月日系ブラジル人求めに応じてサンパウロブラジル公演1970年第21回NHK紅白歌合戦紅組司会大トリ担当紅白史上初の組司会トリ兼任である(組司会大トリ兼任女性に限れば唯一)。この時の歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の「人生将棋」。歌手司会前例はあったが、組司会トリ務めということはまだなかったため、ひばりが紅組司会決まった時点で、紅組トリ青江三奈当時女性歌手ヒットNo.1)との構想固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは…と思いました来年歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリ歌いたい」と発言結局ひばりの紅組司会大トリ半ば強引に決定した。 この時期田岡一雄父親代わり存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年田岡葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになった

※この「母・喜美枝との二人三脚時代」の解説は、「美空ひばり」の解説の一部です。
「母・喜美枝との二人三脚時代」を含む「美空ひばり」の記事については、「美空ひばり」の概要を参照ください。

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