東映入社 - 草創期
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「岡田茂 (東映)」の記事における「東映入社 - 草創期」の解説
木暮剛平らが同期の親友。卒業後は、官庁や銀行は性に合わず、製造業がいいと、親類のいた郷里の東洋工業(現マツダ)か、工場が出来たばかりの麒麟麦酒広島工場への就職を考えていたが、日本中が着の身着のままだったから、永野護→桜田武を紹介してもらい日清紡績への就職を第一希望にした。しかし小学生からの幼馴染今田智憲に誘われ、広島の実家の四軒隣で広島一中の先輩でもあった東横映画社長・黒川渉三の自宅に行くとマキノ光雄、伊藤義、浅岡信夫ら東横の幹部がすき焼きをつついて将来を話し合っていて、黒川から「女子工員の管理しかないようなつまらない商売はやめておけ、これからは娯楽産業だ。中でも映画だ。俺は映画会社を作る。お前はそこに就職すべきだ。『鶏口となるも牛後となるなかれ』だよ、岡田くん」と誘われ、他の幹部らにも激しく説得された。特に豪放磊落なマキノの人柄に惹かれ、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める。黒川の言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は大陸浪人たちが蝟集する旧満映系の残党を中核として、元々京都で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。 1947年、雑用係からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められた。製作進行係として最初に担当したマキノ雅弘監督の『金色夜叉』(1948年)の撮影のとき、エキストラのトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという。当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事。翌1948年、24歳で製作主任に昇格。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意。山本薩夫監督で映画化しようと東宝が動いていたが、岡田が先に映画化権を買った。東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒でわだつみ会の会長だった氏家齊一郎や、副会長だった渡邉恒雄が「天皇制批判がない」とクレームを付けたり、会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵、月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、黒川社長への直訴が実り、マキノの助け舟もあって、自ら陣頭指揮を執って1950年、映画は完成。タイトルを『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て当時では最高の大ヒット、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった。本作品での岡田のクレジットは「製作担当」であるが、これが岡田の実質的な初プロデュース作。1948年、京都撮影所(以下、京撮)に従業員組合(労組)が創立され書記長。翌1949年、新執行部の選出で二代目労組委員長に就任。
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