日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声とは? わかりやすく解説

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日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/02 00:01 UTC 版)

日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声
監督 関川秀雄
脚本 舟橋和郎
製作 マキノ満男
出演者 伊豆肇原保美杉村春子英百合子沼田曜一花沢徳衛
音楽 伊福部昭
撮影 大塚新吉
製作会社 東横映画[1]
配給 東京映画配給
公開 1950年6月15日[1]
上映時間 109分
製作国 日本
言語 日本語
配給収入 2,000万円(映画入場料70円)[2]
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日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(にほんせんぼつがくせいのしゅき きけ、わだつみのこえ)は、東横映画1950年(昭和25年)に製作し、東京映画配給が配給した日本映画である。

概要

1944年3月に開始され6月末まで続いた、イギリス領インド帝国北東部のインパール攻略を目指した「インパール作戦」の部隊の学徒兵の敗走と回想シーンで構成される[3]

登場する学徒兵は、東大ばかりではなく、三高東京美術学校早大高等学院東京高等師範学校など多様なものとなっている[3]

キャスト

製作

企画

クレジットは「製作担当」であるが、後の東映社長・岡田茂が、入社2年目24歳の時に手掛けた実質的な初プロデュース作品[4][5][6][7][8][9][10][11][12]。冒頭から泥沼で行き倒れになっている兵たちの姿を映し出し、バックに「君が代」を流す[11]戦後初の戦争映画[13]、戦場の最前線で死にゆく兵たちの姿を映像として映し出した初めての日本映画といわれ[11]、日本初の「反戦映画」ともいわれる[14][15][16][17][18]。本作の大ヒット以降、「反戦映画」が続々と製作された[14]。岡田は、戦死した学友たちの話を後世に残さなければ、学友たちが浮かばれないと[11][15]1947年東京大学協同組合出版部の編集によって出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』刊行後から映画化を決意[4][19][20][21]。遺稿集の編集にあたった東京大学新聞編集部の部室に単身乗り込み[4]、「先輩に任せろ」と10万円で映画化権を買い取った[4][15][20]

トラブル

シナリオは、最初は八木保太郎に頼んだが[22]、八木は軍隊を知らないため[22]舟橋聖一の弟で、戦争経験のある[22]当時は駆け出しのライターだった舟橋和郎にまわり[22]、シナリオは完成した[15]。舟橋も自信作といえる出来で、京都で心配する岡田には「ヨイホンデキタ、アンシンセヨ」と電報を打った[22]。しかし東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒でわだつみ会の会長だった氏家齊一郎や、副会長だった渡邉恒雄など、編集に関わった幹部が[15]、「天皇制批判がない」とクレームを付けてきた[4][5][15]。岡田が企画して以降、戦没学生の手記についての世の中の注目がはるかに大きくなってしまい[20]、全学連幹部は左翼教条主義的にシナリオの細部を攻撃した[15][20]。岡田は、東大の後輩・氏家ら左翼学生の説得には、彼ら反対派の中から二人を撮影現場に就けるという妥協案でようやく納得させた[23]。彼らが望むテーマ通りに撮っているかをチェックする監視役という訳で、その1人が富本壮吉であった。富本はこれが縁で映画界入り、後に『家政婦は見た!』などのテレビドラマ演出で主に活躍した[23]。なお監視役といっても、撮影に入ってしまえばこちらのもので、現場では文句は言わせなかった。むしろ現場の熱気に魅入られ、学生たちも手伝うようになったという[20]

全学連との話し合いは妥協に妥協を重ねて乗り切ったが、次は東横映画内部から批判が上がった[15][20]。当時の東横映画は千恵蔵右太衛門時代劇全盛で[16]黒川渉三社長からは「戦争の悲惨さを思い起こさせるような映画が当たるわけない」と批判され[15]、会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」「お前はアカか」などと猛反対を受けた[4][5][15][20][24]。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代であったが、絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、マキノ光雄の助け舟もあって1950年、映画を完成させた[4][16][20][24]。  

タイトル

手記集の続編として1949年に出版された日本戦歿学生手記編集委員会編『きけ わだつみのこえ 日本戦歿学生の手記』(東京大学協同組合出版部)のタイトルに因んで、岡田が映画の題名を『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更した[4][5]

キャスティング等

岡田茂がスタッフには、脚本八木保太郎舟橋和郎ら、監督関川秀雄音楽伊福部昭と、レッドパージで他の映画会社を追われた人たちを起用[5][19][20]。またキャスティングは、俳優座佐藤正之に「スターはいらないんだ。芝居がうまい役者使っていい映画を作って、会社の幹部を見返してやりたいんだ」と訴え、感銘を受けた佐藤が新劇の若手俳優を説得にまわり、低予算で製作に至った[5][20]。当時は無名だった沼田曜一信欣三佐野浅夫大森義夫俳優座民芸文学座の俳優を起用[5][20]。やはり感銘を受けた杉村春子も出演した[5][19][20]。スターシステム一辺倒の当時はスターが出演しない映画は皆無に等しく[5]、異色のキャスティングだった[23][25]。こうした新劇の役者も当時パージにあって金銭に困っていて、山城新伍に岡田は「いま、金に困ってるから、20~30万出しゃアイツらホイホイ来よるぞ」と言っていたという[26]

この他、本作のロケハンで、熊井啓を映画界入りさせるきっかけを作っている[27]

撮影

GHQ占領下の時代で、映画は国民に大きな影響力があると判断され、台本の段階から厳しい内容のチェックがなされ、当然沖縄を含めて海外ロケは許可されず[17]、予算の問題もあり[5]、南方戦線のシーンは宮崎県青島奈良県の山中で撮影した[5][12]。費用を出来るだけ切り詰めるため、宿泊は寺を借り、宮崎交通を始め、宮崎・奈良の現地の人たちから大きな支援を受けた[5]

逸話

『きけ、わだつみの声』の試写の際、東京急行電鉄会長の五島慶太は、目に掛けていた次男がブーゲンビル島で戦死した事とオーバーラップさせて号泣[5]。この件で岡田は五島に認められ、出世の糸口を掴んだ。なお、岡田はこの時の金一封を、撮影所仲間と共に一晩で使い果たしてしまった[4][28]

作品の評価

本作は珠玉の反戦映画と評価を得て、当時の金額で配収2000万円の東横映画史上最大のヒット[7][9][16][17][20]。瀬死の状態にあった東横映画を救ったが[9]、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかったといわれる[4][5][20]。しかしこの映画こそ、東映が翌1951年に発足される切っ掛け[8]、原点となり[9]、東映の魂ともなる記念碑的作品となったと評される[9][29]松島利行は「もしもこの映画が製作されなかったら、今日の東映はなかっただろう。少なくとも東映の歴史は全く違ったものになっただろう」と述べている[15]中島貞夫は「東横映画時代に岡田さんが実質的な初プロデュース作として現場を指揮して、それがそのまま会社組織になって翌年『東映』になった。僕はそう認識しています」と述べている[10]春日太一は「『きけ、わだつみの声』は『暁の脱走』『また逢う日まで』と同じく、戦後の日本映画を語る上で重要な作品」と評価している[11]

戦前の日本社会では大学の学生はそれ自体エリート徴兵を猶予されていたが、アメリカとの戦争が始まった後はその特権がなくなった[14]。本作はジャングルと雨と泥濘のビルマ戦線を敗走する日本軍の中で、大学からそのまま戦場に送られた学徒兵たちが闇の中を姿なく飛来する敵の弾丸に倒れ、病と飢えで死んでゆく。その中で大声では語られぬ戦争への呪詛が囁かれ、果たすことのできなかった学業への悔恨が語られる[14]。それらの声はあまりにもかぼそく弱々しく、爆撃と銃声と怒号と絶叫の中でかき消される。善玉悪玉的な描き方に問題はあるものの、日本映画として戦後初めて戦争特に戦場の恐怖と悲惨が本格的に描かれたこと、はっきり反戦という立場に立ってなされたことで興行的に大成功し、以降、多くの反戦映画が作られる切っ掛けとなった[14]

出典

  1. ^ a b 円谷英二特撮世界 2001, p. 26, 「初期作品紹介 1950-53年」
  2. ^ 「東映 主な戦争映画」『AVジャーナル』2004年9月号、文化通信社、25頁。 
  3. ^ a b 旧 作関川秀雄 監督 『きけ、わだつみの声』 1950年作品
  4. ^ a b c d e f g h i j 東映の岡田茂名誉会長 死去 | NHK「かぶん」ブログ:NHK(Internet Archive)“岡田茂・東映名誉会長が死去”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2011–05–09). オリジナルの2015年9月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150927124006/https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG09011_Z00C11A5CC0000/ 2021年6月5日閲覧。 岡田茂 おかだしげる- コトバンク”. 朝日新聞社. 2021年6月5日閲覧。岡田茂 時事用語事典 情報・知識&オピニオン”. イミダス. 集英社. 2021年6月5日閲覧。岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・福田和也” (PDF). メッセージ.jp. BSフジ (2005年5月15日). 2021年6月5日閲覧。(archive)金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9 NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)、『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第2回 / 全2回)岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)岡田敬一 (2003年6月5日). “【競うライバル物語】(45)日本アニメの先駆者達(4)”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. オピニオン2頁 “邦画サバイバル(5) 東映、撮影所売却で波紋―打開策欠き苦戦(映画ビッグバン)終”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 3. (1999年2月23日) 「追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・高崎俊夫」『東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17』2011年8月1日、東映ビデオ、4-8頁。 東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト )、岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)「特集 戦記映画 スペシャル対談 東宝 松林宗恵 vs 東映 佐藤純彌/人間を描く戦記映画」『東映キネマ旬報 2007年秋号 vol.4』2007年8月1日、東映ビデオ、6頁。 布村建「極私的東映および教育映画部回想」『映画論叢』第18巻、国書刊行会、2014年7月号、24頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 悔いなき、80-83頁
  6. ^ 川北、60-61頁
  7. ^ a b “怪獣だけが映画じゃない、時代劇が銀幕の黄金時代を築いた (戦後の履歴書)”. 日本経済新聞 (東京: 日本経済新聞社): p. 9. (1994年11月27日) 
  8. ^ a b 福中邦昭(東映宣伝部長)・中川敬(東宝宣伝部長)、司会・松崎輝夫「映画誕生100年 東宝=東映 スクリーンに平和への祈りを込めて 戦後50周年記念映画で共同戦線 先生!また逢えるよね。『ひめゆりの塔』 涙の数だけ感動があった。『きけ、わだつみの声』」『映画時報』1995年3月号、映画時報社、4–15頁。 
  9. ^ a b c d e 「GO~STOP☆ゴー~ストップ☆GO~STOP☆ゴー~ストップ 戦後50年記念の大作『きけ、わだつみの声』製作費10億、東映/バンダイが製作発表会」『AVジャーナル』1995年1月号、文化通信社、110頁。 
  10. ^ a b 8期生中島貞夫の東映史 – 東映キネマ旬報特別号70周年特集 pp.2–3
  11. ^ a b c d e 春日、25-34頁
  12. ^ a b 小野民樹「原一民『写真家志望だった』」『撮影監督』キネマ旬報社、2005年、67–71頁。ISBN 9784873762579 
  13. ^ 創立60周年記念!東映オールスターキャンペーン
  14. ^ a b c d e 大島渚著作集、220–225頁
  15. ^ a b c d e f g h i j k “〔用意、スタート〕戦後映画史・外伝 風雲映画城/13わだつみにアカ攻撃”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. 4. (1991年12月25日) 
  16. ^ a b c d “〔人物交信録〕 高岩淡〈東映の新社長〉 現場育ち、夢実現へ熱い思い”. 毎日新聞 (毎日新聞社): p. 25. (1993年7月7日) 
  17. ^ a b c 「撮影報告 きけ、わだつみの声<フィリピン篇> / 原一民」『映画撮影』第128号、日本映画撮影監督協会、1995年8月20日、24 – 27頁。 NDLJP:7954693/14
  18. ^ 山根米原、120頁
  19. ^ a b c 日本映画界のドン 東映名誉会長・岡田茂さんが死去 - プレスネット
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n 風雲、29-32頁
  21. ^ クロニクル、18-19、21頁
  22. ^ a b c d e 桂千穂舟橋和郎」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、419-420頁。ISBN 4-88296-801-0 
  23. ^ a b c キネマ旬報』1984年4月上旬号、143-145頁
  24. ^ a b キネマ旬報』2011年7月上旬号、56-57頁
  25. ^ 黒井和男『映像の仕掛け人たち』キネマ旬報社、1986年、8-9頁
  26. ^ 男気、21頁
  27. ^ 西村雄一郎『ぶれない男 熊井啓』新潮社、2010年、31-32頁
  28. ^ 波瀾、53-54頁
  29. ^ #論叢36、58頁

参考文献・ウェブサイト

関連項目

外部リンク

映像外部リンク
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