東映列車シリーズ
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「喜劇団体列車」および「喜劇初詣列車」も参照 本作の好評を受け、シリーズ化が決定し、以降『喜劇団体列車』(1967年11月公開)『喜劇初詣列車』(1968年1月公開)の2作品が製作され、本作『喜劇急行列車』と合わせた3作品を「東映列車シリーズ」「列車シリーズ」と呼ぶことが多い。二作目を製作中と見られる1967年10月の文献に「東映国鉄路線」と書かれた資料もある。他に「喜劇・列車シリーズ」と書かれた資料や、同じく瀬川昌治が手掛けた「旅行シリーズ」の一部としている資料もある。 当時の東映は毎日ヤクザ映画を劇場に掛けていた時期であったうえ、東映内部で作品の評価が低かったものの、社長の大川はヤクザ映画を嫌っており「プログラムに変化を入れなければならない」と、シリーズ化を決定した。当時の東映の関係者は「国鉄は支社が28あるから(当時)28本作れる」と語った。 第二作のタイトルには、団体動員を狙う『喜劇団体列車』と命名。その際鉄道弘済会とタイアップして、駅構内の売店で、当時の一般劇場入場料400円の3割引き価格・280円で前売券を販売し、好調な売れ行きとなった。 1968年、3作目の『喜劇初詣列車』公開の後、大川社長の息子・大川毅東映専務と岡田茂たち「活動屋重役」が揉め、東映のお家騒動が起きた。この煽りで、岡田は1968年5月17日付けで東映の映画製作の最高責任者・企画製作本部長に就任し、続いて同年8月31日付けで映画の製作・配給・興行までを完全に統轄する映画本部長に就任。大川社長から映画部門に関しては全権委任され、一つの映画会社の社長の立場に匹敵する大きな権限を持たされた。本部長就任にあたり、「エロとヤクザの“不良性感度”映画を一層強化する」と宣言した。 『喜劇初詣列車』に続くシリーズ4作目として『喜劇新婚旅行』が企画として挙がっていた。しかし本シリーズに渥美清とコンビを組んで3作品に出演した佐久間良子が、上記の東映の「不良性感度」路線を毛嫌いし、エロでもグロでもない作品にしか出ない方針をとったため、出演依頼に応じなかった。その影響で、東映での出演が減った。このため佐久間は他社(映画会社)出演を認めて欲しいと強く訴えたが、まだ五社協定の強い時代で思うようにいかなかったと述懐している。自身が映画化を希望した『石狩平野』も製作延期になった佐久間はついに「ハラを立て」、「順法闘争」に出て、それに応じた渥美清も4作目の出演を拒否。こうして「列車シリーズ」は終了した。
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