不良性感度
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1960年代に東映が時代劇から任侠路線へ、さらに暴力とエロチシズムの路線に踏み込んでいったとき、岡田がこれを〔不良性感度〕と呼んだ。以降、1970年代、80年代に於いても〔不良性感度〕の維持と推進は東映の基本路線となった。また〔不良性感度〕は他社に真似られた。言葉の初出は『キネマ旬報』1965年11月上旬号で、井沢淳、高橋英一、日高真也らが参加した匿名の座談会中、このうちの誰かが京都撮影所を訪ね、岡田撮影所長と話をし、岡田が"不良性感度"という言葉を使い、他の出席者が「なんだいそりゃ」と驚き、岡田が以下のように話していたというもの(座談会形式のため要約)「映画界の不振を救うルールを発見した。それは不良性感度の開発だ。つまり社会の不良性がどんどん進んでいる。この不良性を早くキャッチして、それに合わせた企画を立てる奴がこれからは勝ちで、その点から言えばやくざ映画なんかはもう駄目で、来年からはこの不良性の感度をもっと良好にせないかん。映画を作っているものも昔は不良少年の集まりで、不良の方が流行の感度に敏感だ。今は一流大学を出た人間が多すぎる。だからここで不良と称される連中も製作に入れて彼らの敏感さを活かしていく。善良性感度の方はテレビにまかせておけばいい、映画は不良性感度の養成だ」。また「従来の東宝、松竹等で作り上映される映画は善良性の感度に基づく映画であるが、この種の「善良性感度」の映画はテレビによってお茶の間に提供出来るものである。テレビに対抗して映画館でお客に見せる映画、お客として映画館まで足を運ばせる映画はテレビで見られないもの、即ち〔不良性感度〕の映画でなければならない。「やくざ映画」がまずその一ジャンルである。そしてその外でいえば「好色もの」があるというわけだ」とも話し、「私はつくる側としては珍しいほど館主と直接話をした。口ゲンカも沢山したが、そういうなかで、ある種の大衆感覚が養われたと思う。映画というのは、大衆が支持しなきゃだめ。自分一人がいいと思ったって、お客が入らなきゃどうにもならない。これをしみじみ感じたのは私が企画した『わが一高時代の犯罪』が見事に外れてから。それから、中途半端なものいっさいやめた。個人の趣味ではだめだ、と。大衆のいうのは、そんな甘っちょろいものじゃない。こわいマンモスだと」等と話している。 岡田は映画について「一つは文化的な機能であり、第二は、江戸時代に芝居が“カワラもの”と言われたときからの見世物の役割だ。この二つが、映画にとって陰陽のエレメントになっているという考え方だ。どれか一つに限るのはよろしうない。この二つの要素をいかに有機的に結び付けるかということが大事なことであり、可変的にみつめる必要がある。ところがある世代(老化世代)以上になると、一方的に固定的に摑まえたがるのが困るところだ」などと話していた。加藤泰は岡田に「映画の主役は悪やで、悪やないとあかんで」と言われたと話している。 総売上げ1000億円の大台に乗せ、史上最高の好決算を記録した1989年のインタビューでは「映画製作ってのは風俗産業みたいなもんだからね、絶えず大衆の求めているものは揺れ動いてるからな。ファッションだな、これについてゆくためには、まったく別の発想を入れ込むこともやらにゃダメなんだ。ある時期、角川春樹クンに頼んでシャシン入れてもらったのも、西崎義展クンに入って来てアニメ映画の革命を起こしたのも、みんな"それ"だよ」と話した。 岡田が提唱した〔不良性感度〕路線は、ヤクザ、エロ、グロを追求したが、1975年の『爆発! 暴走族』では、ついに各地の本物の暴走族グループを集結させるに至った。本作で映画初主演したのが岩城滉一である。 田中純一郎は「岡田茂が"いまの世情では純情度の高いものはダメで、俳優でも純情スターより不良性感度の強いものでなければ時代おくれだ"といっているのは、時流に惑溺した不見識な見解といわねばならない。指導者はつねに時流を抜いた批判性の上に立脚して、全体的な判断力を持たなければ危険だからである」と批判した。
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