のちの作品への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:29 UTC 版)
本作も含め「集団抗争時代劇」は、それなりに成功したが、決定的ヒットは生まれず、興行的には凡打が続いた。岡田茂は急速に東映京都を自己の統制下に置きたいと企図し、1964年後半からほぼ全て東映京都の作品は岡田企画に塗り替えられた。任侠映画は勿論、「集団抗争時代劇」も1964年後半以降は全て岡田企画となる。岡田は「時代劇のお客はテレビに取られた。そんなものに金をかけれない」と話し、映画での本格時代劇製作は中止させ、時代劇はテレビに移していった。時代劇がテレビに移ったことで岡田の標榜する「不良性感度映画」が一層強化されることになった。 里見浩太朗は、本作製作の頃から「東映京都に角刈り着流しのヤクザ風の男が増え、撮影所内がすごくガラが悪くなった」と証言しており、着物をきたヤクザ役ならまだよかったが、背広にピストルが主流となったとき『これは自分には似合わない』と思い、ヤクザ映画の出演を止めたと話している。1965年5月、里見は同じくヤクザ映画を嫌う中村錦之助や東千代之介らとともに東映内に俳優組合(東映俳優クラブ組合)を結成し、岡田と反目に回り、以降、活動の場をテレビに移した。 岡田は1966年の東映ラインナップとして「これまでの"やくざ"、"ギャング路線"に、新しく"明治もの""山窩もの"を考えている。それにできれば女優の活路を考え、"毒婦もの"を加えたい。時代劇の製作予定はない」と話した。岡田は秘かにエロチシズムを時代劇に持ち込むことを意図していたため、1966年以降、東映の映画作品は暴力とエロを主力とするラインナップに切り換えられていった。
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