のちの刎頸の交わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 14:34 UTC 版)
それから50年後の秦代末期、張耳と陳余という人物が藺相如と廉頗を見習い刎頸の交わりを交わした。だが反乱軍に身を投じた二人は、秦との戦いで張耳が秦軍に追い詰められたとき、陳余が秦の大軍の強さに圧倒されたために援軍を送れずにいたことから仲違いをし、ついには互いの一族を殺し合うような仲になってしまった。 また、蜀漢の劉備と魏の政治家である牽招が、おたがいに若き日に「刎頸の交わり」の仲であった記述がある。 日本では、1970年代にロッキード事件で、元首相の田中角栄と実業家の小佐野賢治の関係が「刎頸の友」として有名になり、裁判でも取り上げられた。これについては、1973年(昭和48年)に国会で、当時現職の首相であった田中が、親友の入内島金一について「この世の中にある三人の一人であるというぐらいに刎頸の友である」と発言したことに対し、残りの2人は誰なのか、という詮索が行われ、結局、中西正光と小佐野賢治ということに落ち着いたものであり、この3人のうち入内島と中西はあまりマスコミに取り上げられなかったことから、もっぱら小佐野のみが田中の刎頸の友として知られるようになった、という経緯がある。 沖縄方言で、親友を意味する『くびちりどぅし』は、刎頚の友を意訳したものである。
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