東映ラインナップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:50 UTC 版)
「岡田茂 (東映)」の記事における「東映ラインナップ」の解説
大川博は映画づくりはズブの素人だったため、企画選定に干渉せず、大川時代の東映は、企画の最終決定はマキノ光雄が握っていた。マキノの下で実際の製作を岡田が責任を持って行った。マキノが1957年に亡くなると企画の最終決定は東・西の両撮影所所長が持つようになった。つまり岡田は京都撮影所(以下、京撮)所長に就任した1962年から企画の最終決定を持っていた。勿論、京撮所長が反対側の東映東京撮影所(以下、東撮)所長が決めた企画をひっくり返すことは出来ない。大島渚自身が失敗作と認める『天草四郎時貞』は、岡田が東撮所長時代に京撮の辻野公晴の企画を 当時の京撮所長が通したもの。岡田は1964年2月に東撮所長から京撮所長に転任するが、その後の東撮も岡田が残した任侠路線や好色路線を踏襲したことから、岡田は東映作品のラインナップを事実上指揮した。岡田は1968年に製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長、同年秋に製作から営業までを一貫して統括する映画本部長に就任し映画会社の社長の立場に匹敵する権限が与えられた。1971年1月にテレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握。大川の逝去で、このまま1971年8月社長に就任すると長らく取締役を置かないワンマン体制を敷き、2002年6月に相談役になるまでに実質40年の間、東映の企画の最終決定を行った。この間、岡田のOKが出なければ東映で企画は通らなかった。
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