東映ポルノ再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:49 UTC 版)
本作は1975年1月、東映ポルノ再開第一作。東映ポルノは日活ロマンポルノの勢いに押され、1973年秋頃から営業成績が急落しており、1974年2月16日公開の『聖獣学園』が「想像できない不入り」に終わり、岡田社長が腹を立て「ストリップ映画は所詮キワモノだよ!」と、東映ポルノの製作打ち切りを宣言し、1974年6月1日公開の『色情トルコ日記』を最後にポルノからの撤退を表明した。しかし地方の劇場主が国産ポルノを欲しがるため、低予算のポルノはひっそりと製作を続けられ(東映ポルノ#東映ニューポルノ)、また向井プロなどからポルノを発注し配給した。東映ポルノの正式な製作再開は『エマニエル夫人』の大ヒットと1975年の正月後半映画を予定していた『山口組三代目』の3作目『山口組三代目・激突篇』が東映と山口組の親密な関係が明るみに出たことで製作中止に追い込まれ、急ごしらえで製作した高倉健主演の『日本任侠道 激突篇』が大赤字を出した影響といわれ、企画難がひねり出した苦肉策として急遽、岡田社長は東映ポルノの復活を決断した。 再開にあたり、岡田社長は「日活より見ごたえのあるエロ作品を作れ。エロそのものをロマンではなく、よりハードに描け。向こうが五回なら、こっちは七回ベッドシーンを入れろ。仁義なんかあるか。人気女優は遠慮なく日活やピンク映画から引き抜け。ともかくエロだ、エロだ、エロだ!」などと、主婦連やPTA、教育委員会が聞いたら卒倒するような極秘指令を現場に出していた。当時、東映東京撮影所で脚本家修行中だった佐伯俊道は、プロデューサーに呼び出され発禁本を次々読まされて企画書を書いていたという。
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