東映ニューポルノ
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「東映ポルノ路線」は1968年の『徳川女系図』以来、5年半で120本を超す作品が作られ「ヤクザ路線」と並ぶ看板路線の地位を占めたが、1973年頃から営業成績が急落。特に1974年2月に公開した多岐川裕美の主演デビュー作として知られる『聖獣学園』は「想像できない不入り」で、「ストリップ映画は所詮キワモノだよ!」と岡田社長が宣言し、この年6月に公開されたシャロン・ケリーと梅宮辰夫のセックス戦が展開される『色情トルコ日記』をもって撤退を表明した。 しかし地方では当時東映でも3本立てがあり、「仁義なき戦いシリーズ」などのヒット作のロングラン態勢確立のため3週目以降の併映に加えたり、春休みや夏休みに展開した「東映まんがまつり」や「特撮大会」を早く切り上げて大人向け番組を欲しがる下番線(地方館)のために、1973年春から「300万(製作費)映画」の独立プロの「ピンク映画」を模倣した「500万(製作費)映画」が作られた。 「500万ポルノ」という名称は1975年の文献にも見られる。 「アニメなんか見たくねえ」という筋金入りの東映の観客は多かった。 先の「東映㊙ポルノ大会」が東京第一プロ、向井プロ、JAAなどの独立プロの作品を買い取って配給し、1973年「㊙ナウポルノ」と改称されたが、他社からの買い取りではなく、この年京撮本体で製作された成人映画を「東映ニューポルノ」と呼ぶ。どうせなら自分のところで作った方がいいとの岡田社長の判断である。 「東映ニューポルノ」は2015年現在データベースにも記載のない本田達男監督の『情欲のぞき窓』が嚆矢とされ50分、あるいは60分前後の中篇が1974年まで20数本製作されたとされる。 元々「500万ポルノ」は、テレビ映画が製作されていない間に、空いたスタッフを導入して、下番線用の安い映画を作ろうとして出発、あくまでテレビ一話分として発想され、そのため上映時間は50分、撮影日数は実働7日間などと限定されていた。 2013年7月に東京ラピュタ阿佐ヶ谷で史上初となる「東映ニューポルノ」特集上映が組まれたが、その際立教大学助教授教え子殺人事件を扱った『女子大生失踪事件 熟れた匂い』(1974年、荒井美三雄監督)などが上映中止となったとされる。 1974年の暮れから公開されたフランス映画『エマニエル夫人』が大ヒットし、同作の配給元は、当時まだ弱小の日本ヘラルド映画で、上映館は狭い劇場が多く、満員で入場をお断りされるお客が続出し「エロにあぶれた男たちは必ずエロに戻ってくる!」と、東映は1975年正月の『怪猫トルコ風呂』『赤線㊙地帯』(宮下順子主演・向井寛監督)『下苅り半次郎㊙観音を探せ』(森崎由紀主演・原田隆司監督)から「ポルノ路線」を再開させた。 1975年、京撮で製作された『玉割り人ゆき』は、監督の牧口雄二が製作費は500万だったと話している。 この後1970年代後半、角川映画と組んで「大作1本立て」を始めるまでは散発的に主に二番館向けとして「東映ポルノ」は製作が続いた。 東映本体は1979年の『天使の欲望』(監督:関本郁夫)をもってポルノから一応再撤退したものの、1980年代半ばまで関連会社の「東映セントラル」を通して、主として獅子プロ作品などのピンク映画及び洋ピンを買取り配給していた。
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