ロマンポルノ裁判と再起
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1971年(昭和46年)11月、老舗であり大手五社の一社であった日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、梅沢は代々木忠が所属したプリマ企画が製作した『変態指圧師 色欲の狂宴』を監督、同作は同年12月22日、添え物中篇作品として日活の配給で公開、「日活ロマンポルノ」に外部製作の監督として参加していく。1972年(昭和47年)1月、「日活ロマンポルノ」のうち、日活製作の『ラブ・ハンター 恋の狩人』(監督山口清一郎)、『OL日記 牝猫の匂い』(監督藤井克彦)とともに、梅沢が監督したプリマ企画製作の『女高生芸者』が警視庁に摘発される。のちに「日活ロマンポルノ事件」と呼ばれたこの事件において、山口や藤井といった監督は起訴されたものの梅沢は起訴されず、『女高生芸者』については同作を製作した渡辺輝男こと代々木忠のみが起訴され、梅沢は、1974年(昭和49年)6月5日、東京地裁において検察側の証人として出廷している。同裁判は、1980年(昭和55年)7月、東京高裁で無罪が確定した。 梅沢は摘発後の同年2月に公開された『現代ポルノ遊び1=3』(製作・配給日本シネマ)以降、満2年間、作品を発表することができなかった。ただし『日本映画人改名・別称事典』(2004年)によれば、小泉 大介の名で脚本を書いていたといい、プリマ企画の日活配給作品のこの時期の脚本がそれに当たる。また同書は黒木 剛の名で監督作を発表したといい、東京興映(代表・小森白)が最末期に製作したこの時期の作品がそれに当たる。1974年2月に公開された『悦楽の世界』(製作国映、配給新東宝興業)は、梅沢が「東元薫」名義で監督した作品であり、同作以降、同名義で新東宝興業の配給作品を量産する。同年以降、美人女優として人気があった仁科鳩美(1952年 - 1979年)の主演作を多く手掛ける。1977年(昭和52年)には、仁科を主演に『私は誘拐されました 女体実験室』を監督(「東元薫」名義)、同作は東映が配給して同年3月12日に公開されたが、以降、東映あるいは東映セントラルフィルムが配給するいわゆる「東映ニューポルノ」を新東宝興業作品と並行して手がけるようになる。仁科は同年9月に公開された梅沢(「東元薫」名義)の監督作『ある女教師 夜間授業』を最後に引退、その2年後の1979年(昭和54年)には亡くなっている。梅沢は同年5月に公開された『女子学生 真夜中の授業』を最後に「東元薫」の名を封印した。 1983年(昭和58年)末までは年間15本内外のハイペースで量産していたが、翌年には半減、1986年(昭和61年)以降は作品ペースが激減、1988年(昭和63年)4月に公開された伊藤清美の主演作『新妻ハードONANIE』を最後に作品発表が途絶えた。満53歳であった。以降、亡くなるまで10年間、作品の発表はなかったが、1994年(平成6年)6月7日 - 同11日にアテネ・フランセ文化センターで開催された「大和屋竺映画祭」の特集上映に対し、16mmフィルム版で梅沢が私蔵していた『引き裂かれたブルーフィルム』(1969年)と『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』(1970年)の上映用プリントを提供、期間中の同10日には出演者の港雄一とともに観客の前に姿を現した。 1998年(平成10年)12月26日、東京都内の自宅で死去した。満64歳没。久保新二の回想によれば、自宅で亡くなった際に「電話の受話器が外れ指の先にあった」とのことで、これについて久保は「救急車を自分で呼ぼうとして事切れたのか、鳩美から電話があって出ようとしたのかは定かではない」と書いているが、前述の通り仁科鳩美は19年前にすでに亡くなっている。野上正義によれば、梅沢は既婚者であり一人娘がいたという。梅沢についた助監督として、滝田洋二郎、佐藤寿保、片岡修二、瀬々敬久らが挙げられる。また、1970年前後には国映作品で一定期間、チーフ助監督として中村幻児、セカンド助監督として浜野佐知が梅沢についていたと浜野が回想しておりその門下人脈は現在かなり大きな流れになっている。瀬々は、著書『瀬々敬久映画群盗傳』で、毎年クリスマスイブに獅子プロダクションの貧しい若手たちに差し入れをしていたキャリア末期の梅沢の姿に触れている。
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