ロマン主義とナショナルシンボルへの変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:37 UTC 版)
「タータン」の記事における「ロマン主義とナショナルシンボルへの変化」の解説
スコットランドは合邦による「国家の喪失」を経験しており、大きなイングランド化の流れの中でスコットランドの文化的アイデンティティを求めていた。ジャコバイトの反乱が過去のものになってくるとアイデンティティを求める者たちは、それをハイランドに求め、ハイランドの文化と歴史を見直し称賛する動きが出てきた。1778年、ハイランドの伝統文化復活を求め、ロンドンでハイランド協会が設立された。ハイランド・ドレス着用禁止法(英語版)の適用範囲はハイランドに限られ、ローランドやイングランド、海外植民地には適用されなかったため、会員たちはロンドンでタータンを身にまとい、法律の撤廃を求めた。運動が功を奏し、ハイランド・ドレス着用禁止法は1782年に撤廃されたが、この間に多くの柄が失われていった。法が撤廃されるまでタータンを維持し続けたのはローランドの織物業者とブラックウォッチのような政府に付き従うハイランドの軍隊であった。ハイランドとローランドの境界に位置するバノックバーン(英語版)では多くのタータンが作り出され、ハイランド人部隊や植民地のプランテーションで働く奴隷の衣服として、タータンが大量生産された。 またこの時期から19世紀前半にかけてロマン主義文学が興隆し、ハイランドひいてはスコットランドは「ロマンチックな国」と目されるようになる。先駆けとなったのは1760年代に刊行されたジェイムズ・マクファーソンの「オシアン」であった。オシアンはハイランドに古くから伝わる伝承をマクファーソンが翻訳したという触れ込みであり、1762年に『フィンガル』、1763年に『テモラ』として出版された。1773年には訳文を見直し2巻をまとめた『オシアンの詩』が出版された。この作品は、古来の伝承と偽ったマクファーソンの創作であるとしてサミュエル・ジョンソンなどから厳しく批判されたが、読者はハイランドとその文化に憧れや興味を掻き立てられていった。オシアンに影響を受けたロマン主義の作品も次々と出版された。このロマン主義ブームをさらに推し進めたのが、タータンの歴史を語る上で欠くことのできない重要人物の一人、ウォルター・スコットである。ジャコバイトの反乱を題材とした歴史小説『ウェイヴァリー』は空前の成功を収め、ハイランドを題材とした他の作品とともにタータンの知名度向上に大きく貢献した。ロマン主義文学が広めた「ハイランドのアイデンティティ」は「スコットランドのアイデンティティ」として受け入れられるようになっていった。それまでハイランド人を蔑視し同族意識を持つことに否定的だったローランド人も、ハイランド文化を自分たちのものとしていった。
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