ロマン主義・愛国主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
西洋との戦いや「死の崇拝」は、ヨーロッパ史の一部でもあった。例えば、ヨーロッパ諸国が植民地を巡って戦った七年戦争(1756年~1763年)によりドイツの大部分が荒地になった後、『祖国のために死ぬこと』という有名なエッセイが記された。エッセイの作者は数学者・啓蒙主義者・自由(リベラル)思想家であるトーマス・アプトであり、モーゼス・メンデルスゾーンのようなユダヤ人作家とも親しい人物だった。アプトはエッセイで、「同志」へ次のように語る。 死の喜び、それは私たちの魂に、幽閉された女王の叫びのように呼びかけるもの。死の喜び、それは最後に私たちの血管から、苦しむ父なる祖国へ血液を注ぐこと。祖国の大地がそれを吸い取り、再び生きていけるように。 しかしアプトは謹厳な軍人からは程遠く、「自己犠牲」と「美しい死」への呼びかけは、あくまでロマン主義的な詩的表現だった。 第一次世界大戦では、1914年11月の「ランゲマルクの戦い」で、ドイツ軍がフランドル地方でイギリス軍に対し不毛な連続攻撃を試み、14万5千人以上の兵士が死亡した。多くは「愛国青年団体」に属する若い志願兵であり、エリート大学の優等生も居た。この戦いは集団虐殺に等しいと見られるが、ドイツのナショナリスト(国家主義者)たちの喧伝した伝説によると「志願兵たちは、ほぼ確実に訪れる死に向かって、ドイツ国歌を口ずさみながら行進していった」という。また、ナポレオン戦争の時代(第一次世界大戦の約100年前)に書かれたカール・テオドール・ケルナーの詩の一節「幸福は犠牲的な死の中にのみ横たわる」が、度々引用された。
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