東映ポルノの再開
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本作でポルノ映画製作の打ち切りを宣言したが、地方では国産ポルノを欲しがる劇場が多く、低予算のポルノはひっそりと製作を続けられた。正式にポルノ製作再開を打ち出したのは日本ヘラルドが配給した『エマニエル夫人』の大ヒットの影響で、1974年(昭和49年)暮れから公開された『エマニエル夫人』の上映館は狭い劇場が多く、満員で入場を断られる客が続出し「エロにあぶれた男たちは必ずエロに戻ってくる!」と判断。また1975年(昭和50年)の正月映画を予定していた「山口組三代目シリーズ」第三弾『山口組三代目 激突篇』が、東映と山口組の親密な関係が明るみに出たことで製作中止に追い込まれたため、企画難がひねり出した苦肉策として急遽、岡田社長は東映ポルノの復活を決断した。1975年(昭和50年)2月1日に関東地区で「デビュー三重奏」と銘打ち、新人ポルノ女優のデビュー作・大原美佐主演『怪猫トルコ風呂』(山口和彦監督)、森崎由紀主演『下刈り半次郎(秘)観音を探せ』(監督)と宮下順子の『赤線(秘)地帯』(監督不明)の三本立てで東映ポルノを再開させている。宮下順子は当時は既にベテラン女優であったが、『赤線(秘)地帯』は宮下が日活入りする以前の1971年(昭和46年)に向井プロで山科ゆりと共演した宮下のデビュー作とした。1975年(昭和50年)当時、東映は向井寛に『ディープ・スロート』の日本版編集を頼んでいた。しかし宮下のデビュー作は、同じ1971年(昭和46年)の『私はこうして失った』(小林悟監督)とされており、『赤線(秘)地帯』という映画は確認できず真偽は不明。日活は同時期の1975年(昭和50年)2月5日から宮下主演の『実録阿部定』(田中登監督)を公開したため、東映にドル箱女優を利用された形になり「モラルを疑いたい」と反発。しかし東映は「仁義は通してある」と表明した。実はこれ東映側が「新仁義なき戦いシリーズ」第一弾『新仁義なき戦い』の菅原文太の相手役に宮下を借りたいと日活に申し入れたら、日活に軽くあしらわれたことに腹を立てての報復だった。このケンカを宮下のファンは歓迎し、同時期の上映で宮下の人気上昇にもなるし、デビュー当時と現在の宮下のオッパイの膨らみ具合が比較できると喜んだ。
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