製作の決定
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「天国の駅 HEAVEN STATION」の記事における「製作の決定」の解説
1982年の春頃、早坂から書き出しの10枚の脚本が送られてきて、これを読んだ吉永は最初に読んだ企画書のような嫌悪感がなく、早坂らしい温かみが滲み出て、殺人を犯した者の哀しみが胸に響いた。早坂も吉永に出演を勧め、また吉永自身「『細雪』で自分にも魔性みたいなモノがあるのかな」と感じたこともあり、人間の本質的な欲望に触れたドラマはやったことがないし、年齢的にも役の幅を広げて、多少毒のある役にも挑みたいと考えていたこと、日活時代を思い出させてくれる活気のある東映のスタッフとまた仕事をしたいという思いもあり出演を承諾した。出目も吉永の出演を受け「最近、映画監督は恵まれませんから、守備範囲を広げておきませんとね」と監督を引き受けた。「別の女優さんで、いくらでも役に当てはまる人はいると思いますが、吉永さんがやらなければイヤな話になってしまう。普通のきれいな女性が辿る薄幸の道。女の闇の欲望やそこから出てくる魔性を描いてみたい。戦後いろんな改革が進んで、女性も強くなり始めて我慢しなくなった。それが昭和30年頃だと思います。今は女性の犯罪も増えていますけど、いろんな意味でモデルになった女性は現代の女性の先駆的な人だと思います」などと抱負を述べた。出目は東映での初演出となった。
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製作の決定
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「きけ、わだつみの声 Last Friends」の記事における「製作の決定」の解説
その後1995年が戦後50年にあたることから、邦画メジャー3社で戦争映画大作を競作しようという機運が高まり、また各社邦画メジャーとしての意地もあり、東映でも岡田茂東映会長が製作に強い意欲を見せたことから、正式に製作が決定した。フジテレビとの提携はなかったが、当時バンダイが『パワーレンジャー』のキャラクター・グッズでぼろ儲けしていたため、東映が話を持って行き、バンダイの山科誠社長が了承し、東映とバンダイの共作となった。山科は「(岡田)裕介さんに東映の社長になる前にオヤジさんに負けないような実績を作ろう」とリメイクを薦めた、裕介さんは「父親の作品だし、時代も変わったから」と難色を示したが、私が「戦後50年の集大成として製作してもいいタイミングじゃないか」と提案し、裕介さんが父親に話したら、岡田茂さんが快諾し、製作が決まった等と話している。 1990年代前半の東映はアニメ映画以外は大ヒットが出ず、劇映画の大ヒットは1991年に配収10億5千万円を挙げた『福沢諭吉』以降ないという状況だった。岡田親子二代に渡るプロデュース作で「成功させたい」という強い思いが東映内にあった。 東映が本作、東宝が『ひめゆりの塔』と、戦争大作のリメイクを早くに決め、会社の意地を見せ万全の体勢を敷いた。『ひめゆりの塔』も第一作は東映で製作された。しかし松竹はこれに乗らず。このため東映と東宝の二社で『戦後50年記念共同プロジェクト』を実施し、二作品の予告編を反対の劇場で流す、二作品の予告編を一緒にしてお互いの劇場で流すなどという史上初の試みを行うなどで盛り上げた。松竹はこの二社の盛り上がりに便乗し、二年前にお蔵入りさせていた『THE WINDS OF GOD』をこの年公開した。 1995年1月11日に銀座東武ホテルで製作発表会見があり、高岩淡東映社長、山科誠バンダイ社長、岡田裕介東映取締役、出目昌伸監督、脚本の早坂暁、織田裕二、緒形直人、仲村トオル、的場浩司、風間トオル、鶴田真由が出席。会見で岡田裕介プロデューサーは「内容は前作とは趣を異にした早坂先生のオリジナルで、6人の青春群像をオールスターで描く。フィリピンロケを行い、本物の零戦、グラマンも飛ばす予定だ」と話した。高岩東映社長は「50年前にはこんな悲惨なことがあり、その上に今日の平和・繁栄があるわけで、戦争を知らない若者たちにアピールしたい」、山科バンダイ社長は「昭和20年生まれの私も太平洋戦争を知らない世代の一人だが、戦後50年という節目の年にこういう有意義な作品をキチッとした形で残し、次の世代に受け継がれるような名作になればと思う」などと話した。製作費10億円。本来は終戦記念日に合わせて8月公開が理想ではあったが、東映・東宝とも毎年恒例の子供番組があるため、5月~6月の公開となった。
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製作の決定
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「ダイナマイトどんどん」の記事における「製作の決定」の解説
第一稿を読んだ菅原が「想像した以上に面白い。是非やろうじゃないか。どこで撮るんだ」という話になり、古田と同じ飲み屋の常連だった大映の佐藤正大が古田からこの話を聞いていて、徳間康快大映社長と武田敦に報告し大映で撮ろうとなった。しかし菅原は東映の専属俳優のため、勝手に大映の映画に出演できない。このため、菅原が当時はフリーのプロデューサーで、一応東映のゼネラルマネージャーという肩書だった俊藤浩滋にプロデューサー担当を頼み、徳間大映社長と岡田茂東映社長とで話し合いが持たれ、大映で製作、東映で配給が決まった。監督の岡本喜八も最初からの構想で、菅原も「かねがね一度機会があれば組んでみたいと思っていた」と賛成した。 1978年7月27日、後楽園ホールで製作発表会見。同所で会見が行われたのは、これに先立ち、朝9時から後楽園球場で東京映画記者会とスタッフ・役者チームが野球の親善試合を行ったためで、北大路欣也の欠場が響き、記者会チームが22対2と圧勝した。会見には、徳間大映社長、岡田東映社長、俊藤プロデューサー、岡本監督、菅原、フランキー堺、金子信雄、宮下順子、小島秀哉らが出席。徳間大映社長は「本作を再スタート大映映画第一弾として製作する」と述べ、「大映の内部整理に一年かかったが、今年からドンドン製作を進める。今はこれだけ野球に人気が集まっているんだから、この映画だって絶対当たる」と強気の発言。これに対して岡田東映社長は「ウチで作るという話もあったが...」と煮え切らない態度。岡本監督は「昔の愚連隊タッチで大真面目な喜劇を作りたい」と静かな闘志を燃やし、菅原は「脚本を読んで傑作だと直感した。健さんと勝負や」とぶち上げた。封切りを高倉健主演の角川映画『野性の証明』と同じ、1978年10月7日にぶつけると発表した。東映は本作『ダイナマイトどんどん』を主力劇場で、『野性の証明』を東映洋画系で公開するため、どちらに転んでも損はしない。
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製作の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 09:21 UTC 版)
岡田茂東映社長は、1974年5月のインタビューで、本作の製作を決めた理由を「大西中将は人間として凄く魅力があるし、彼の死によって徹底抗戦を主唱した厚木航空隊の青年将校が思い止まったという歴史的な秘話もあって、従来の戦記映画にないドラマが出来ると思ったからなんだ。戦争に若い人は興味がないというが、これは当たるよ」と話している。また「東映カラーはこれからも原則的には"不良性感度"を基調にしてゆくことには変わらない。ただ、時折は"善良性感度"の強い作品を作る。この8月に公開を予定している『あゝ決戦航空隊』、これは特攻作戦を断行した大西瀧治郎中将のハナシだ。特撮と鶴田浩二、高倉健ほかのオールスターでつくろうと考えている。不良性では馬鹿当たりはまずありえない。それを狙うとすれば"善良性感度の企画"を考えにゃいかん時代に入ってきたね」と話した。
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製作の決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:25 UTC 版)
しかし当時の日本映画を取り巻く状況では、このような性描写のないオーソドックスな大人の恋愛映画を製作できる見込みはなかった。1990年代の日本映画界は、アニメーション映画とテレビ局主導による映画に押され、どこも自社製作映画のヒットが出せず、年を追うごとにこの傾向が強くなった。東映は邦画大手の中ではコンスタントに自社製作を続けてはいたが、1970年代から制作投資を控えて、強固な興行網構築に乗り出した東宝と差が広がっていくばかりだった。東映は動画が手掛けるアニメの海外での版権収入が1990年代に伸びて、東映会長の岡田茂はアニメがヒットしている間に何らかの手を打つよう檄を飛ばしていたが、稼ぎ頭だった東映Vシネマを主力とするビデオ事業もオリジナルビデオの過剰乱立とブームの沈静化により1994年頃から売上げを落とし厳しい状況が続いた。 特に伝統のヤクザ映画で赤字番組が続出し、配収5000万円などと、配収が一億円を割るというメジャー映画会社の劇場公開映画と思えない作品を出し始めた。いくら東映は二次使用、三次使用が強いといっても、あまりの不入り映画はテレビ局にも放映権を高く売れず、レンタルビデオ店も引き取らない。1994年には年間の本番線約半分にアニメが乗る状況となった。 岡田は1990年代前後には東映一社で版権を持っておいた方がいいと、提携に頼らない自前で映画を作れと指示していたが、自社製作映画のあまりの成績の悪さから1996年に遂に激怒し、東映発足以来堅持して来た自社製作路線を軌道修正、リスクの軽減やメディアミックス展開を狙いとした提携作品の強化を指示し、本作が製作された1998年は東映発足以来、自社製作が0になった。 1997年は岡田がプロモートした『失楽園』と『新世紀エヴァンゲリオン』がメガヒットしたため、たまたま配収で前年比68.8%伸びたが、『失楽園』の映画とテレビドラマの大ヒットもあって性的描写が話題になる不倫劇が大流行となり、性描写一切なしで、いかにもメロドラマてんこ盛りの純愛ものを大真面目で作ろうという考えは、当時の状況では浮世離れしていた。撮影の木村大作は後に「今世紀最大の冒険映画」と評した。 東映は岡田がOKしないと映画は製作されないため、吉永と渡哲也が二人で岡田に直談判に打って出て『時雨の記』の製作を頼み込んだものの、岡田は「気持ちは判るが、客が来ないものに東映が出資できない」と突っ撥ねたが、吉永は「絶対来させます。私、確信持って来させます」と言い切り、傍らの渡も「二人のギャラは要らない。ギャラなしで切符(前売券)も売るから、とにかく作ろう」と言い切った。渡と岡田は古い仲だった。岡田は「損する訳にはいかないから」となお拒否したところ、二人が「身銭切っても製りたい、二人の永年の想いで今ここに来ている」とまで訴える姿に驚愕し、岡田は「これは買いだ」と判断し製作を決めたが、「その代わり宣伝も徹してやってくれよ」と余分な条件を付け加えた。実際に吉永、渡はノーギャラで、撮影費用を抑えるために渡は石原プロモーションの車を使っていたがそういったものがない吉永はスタッフが運転するライトバンで移動、それほど彼女がどうしても演じたい作品だった。 他の吉永主演映画と違い、クランクイン前の主要スタッフによる大々的な製作発表会見なしに撮影を開始した。
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