製作の経緯と背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 16:40 UTC 版)
「フリーク (チャップリンの映画)」の記事における「製作の経緯と背景」の解説
製作の構想は『伯爵夫人』製作中の1966年ごろに始まったと考えられる。監督と脚本はチャップリン、演出は『ライムライト』以降チャップリンの側近となった「ジェリー」ジェローム・エプスタインがそれぞれ務め、主役のサラファにはチャップリンの三女ヴィクトリア・チャップリン(英語版)を充てる予定であった。チャップリンにはすでに長女ジェラルディンと次女ジョゼフィン(英語版)がいたが、チャップリンはヴィクトリアこそがコメディエンヌの才能をもっており、鋭くかつ物悲しい眼差しがそれを引き立てていると考えていた。そして、サラファ用の翼を試作してヴィクトリアに取り付けてみたり、1969年3月には特撮スタッフとの打ち合わせが行われ、チャップリンも2年にわたって脚本を執筆し校正を続けていた。また、作中で使用される楽曲の作曲も終えていた。 ところが、特撮スタッフとの打ち合わせが行われた1969年、ヴィクトリアはフランスの俳優で「理想のサーカス」を作ることを夢見ていたジャン=バティスト・ティエレ(フランス語版)との交際を開始し、ティエレの夢に手を貸す形で出奔して結婚の末、サーカスのパフォーマーに転身してしまった。そもそも家を出ること自体がチャップリンとウーナに告げなかったことではあったが、「ヒロイン」が思いがけない形で去ってしまったことにチャップリンは相当なショックを受けたと、少なくともウーナやエプスタインは感じていた。その後、1972年にアカデミー名誉賞を受けるために20年ぶりにアメリカを訪問した際には「『フリーク』の背景の合成をやりやすくしてくれそうな新しいキャメラを見たかったから」というジョークを飛ばし、1975年に『巴里の女性』(1923年)のための音楽を付けたあとも時折脚本の手直しを行い、回顧録『映画のなかのわが人生』(My Life in Pictures) でも『フリーク』について取り上げて「いつの日かその映画を作るつもりだ」という一節で結ぶなど、迫る老いの中でも制作意欲が途切れることはなかった。しかし、1977年12月25日未明にチャップリンが生涯を終えたことにより、『フリーク』が完成することはなかった。 チャップリンが『フリーク』で伝えたかったことについて、イタリアのチャップリン研究家チェチリア・チェンチャレーリは「寛容」であると述べている。もっとも、寛容をテーマにした理由については不明である。ちなみに、寛容の重要性および不寛容への批判というテーマは、かつてチャップリンの盟友でもあったD・W・グリフィスの大作『イントレランス』(1916年)でも取り上げられているものであり、チャップリンの方は完成しなかったとはいえ、半世紀の時を超えて寛容をテーマにした作品を盟友同士が手掛けていたことになる。 なお、日本においては映画評論家の淀川長治が『フリーク』に関する情報を伝えていたが、その際に淀川が「『フリーク』はミュージカル映画になるはずだった」と語ったためか、チャップリン研究家の大野裕之をはじめ「『フリーク』=ミュージカル」という認識が広まった。しかし、チャップリン家に残されている『フリーク』に関する資料が徐々に明らかになり、これを踏まえて大野はのちに「ミュージカルではない」と訂正している。
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