スターへの道のり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:40 UTC 版)
ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所でエキストラ出演など6か月の修行を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという。しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画『電光空手打ち』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。 アクション映画、喜劇、刑事物、青春物、戦争映画、文芸作品、ミステリ映画など、幅広く現代劇映画に主演・助演して、東映の期待は大きかったが、その後の作品はどれも当たらなかった。片岡千恵蔵、中村錦之助、美空ひばりの映画などにも助演していた。当時の東映の看板スターである美空の主演シリーズ『べらんめえ芸者』の2作目から出演するが、芝居の硬さが目立ち、見え隠れする暗い陰や低音の声もあいまって、派手さや洗練さに欠ける地味で暗い雰囲気が漂った。粋さが求められるひばりの相手役には違和感があり、ひばりも高倉と組まされ続けることに納得していなかったが。日活出身の井上梅次が監督した『暗黒街最後の日』などの、ギャング映画にも出演しだした。 1963年の『人生劇場 飛車角』で、高倉は準主役で出演。高倉は本作で任侠映画スターとしての足掛かりをつかむが、1964年の『日本侠客伝』では降板した中村錦之助に代わり、高倉は主役となる。高倉の寡黙な立ち姿と目力が東映任侠路線でその威力を発揮した。スターであることを宿命づけられた高倉は以降、無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さぬよう真の映画スターとしての生き方を貫いた。自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。 これ以降、仁侠映画を中心に活躍。耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる。 『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ、1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットし、今も、カラオケなどで歌い継がれている。 70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす」という高倉演じる主人公は、サラリーマンや学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にまでファンが溢れ、立ち見が出たほどであった。他のスターとは一線を画した印象を示したことが、大ヒットシリーズ連発の一因であったが、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている。当時の風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという。 60年代半ばの東映による任侠映画ワンパターン量産体勢は高倉を疲弊させ、結果的に気持ちが入らない不本意な演技が見られるようになった。高倉がそれでも「定番」を演じ続けたのは、劇場で目の当たりにした観客の反応があったからである。
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