秦舞陽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/23 11:37 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動秦舞陽 | |
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生誕 | 紀元前240年 |
死没 | 紀元前227年 秦 |
職業 | 刺客 |
秦舞陽(しん ぶよう、拼音:Qín Wǔ-yáng、紀元前240年 - 紀元前227年)は、燕の名将秦開の孫である[1]。13歳の時、人を殺したことがあり、そのため、当時の人は誰も面と向かって彼を見ることができなかったという[2]。後に燕太子丹が彼を探し出し、荊軻の助手に起用し、咸陽に赴かせ、秦王政暗殺の任務に就かせた。
秦王の朝廷では、荊軻が督亢(とくごう、現在の河北省保定市涿州市・高碑店市)の地図を献上する時、秦舞陽は恐怖から全身が震え始め、不審に思った群臣が尋ねると、荊軻は「北方の田舎者ゆえ、未だ天子にお会いしたことがないので、恐れおののいています」とごまかした。暗殺が失敗した後に荊軻は殺されたが、司馬遷の『史記』には秦舞陽のことは書かれていないものの、同様に殺されたと考えられる。
脚注
関連項目
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