秦の杜県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:37 UTC 版)
もと杜伯国があった地である。春秋時代に秦の武公がその治世11年(前687年)に杜県と鄭県を置いた。この頃秦は小国であったが、周囲の異民族(戎)と戦って領土を拡大しており、憲公2年(前714年)に蕩社を滅ぼした。一説に蕩社は湯杜といい、後の杜県の境界内にあったという。杜県等の設置はその結果である。 杜県の設置時にはそれより上の行政区画がなかったが、領土がさらに拡大し、郡県制が施行されると、首都圏を特別に管轄する内史に属した。秦が都を咸陽に遷すと、杜県は渭水を隔てて都の近郊になった。 始皇帝37年(前209年)に即位した二世皇帝(胡亥)が、諸公子を敵視して誅戮したとき、多く(6人の公子または10人の公女)が杜で殺された。
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