オアシス国家の盛衰
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「中央アジアの美術」の記事における「オアシス国家の盛衰」の解説
タリム盆地のオアシス国家群の起源についてはよくわかっていない。中国側の記録によると、この地方には前漢の時代(紀元前2 - 1世紀)36か国、後漢の時代(紀元後1 - 2世紀)には55か国があったという。紀元前3世紀頃には遊牧民族の月氏がこの地に勢力を有していた。月氏は紀元前8世紀(中国の戦国時代)にはモンゴル高原を支配していたとされ、その民族系統はイラン系とされているが、モンゴル系、テュルク系などとする説もある。月氏の支配地の東方には、別系統の遊牧民の匈奴がおり、月氏と勢力を争うとともに、南の中国(漢)にとっても重大な脅威となっていた。前述のとおり、紀元前2世紀半ば頃、匈奴の冒頓単于は月氏を破り、モンゴル高原を統一。敗れた月氏は西方へ追いやられ、西トルキスタンに定住した。この西遷した月氏を、大月氏と称する。 紀元前2世紀後半、北方の遊牧民・匈奴の度重なる侵攻に悩まされていた漢の武帝は、匈奴と敵対していた大月氏と軍事同盟を結んで匈奴を挟撃しようと考え、大月氏への使者を募集した。この募集に応えたのが下級役人であった張騫(ちょうけん)である。張騫が使節団を率いて長安を出発したのは紀元前139年頃であるが、ほどなく匈奴に捕えられ、捕虜となってしまった。張騫は捕虜生活中に妻を与えられ、子ももうけたが、10年余の後に脱走。ようやく西方の大月氏の国にたどりついた。ところが、大月氏の王は、バクトリアの地は物産も豊かであり、今の暮らしに満足しているとして、漢と同盟して匈奴を討つ計画に加わる気はなかった。13年にわたる苦難の長旅の後、張騫が漢に帰ったのは紀元前126年のことであった。大月氏との同盟という当初の目的こそ果たせなかったものの、張騫は西域の地理、文化などに関する貴重な情報を漢にもたらし、これがその後の漢の西域経営や西方との交易に資するところ大であった。このことから張騫はシルクロードの開拓者といわれている。紀元前121年、武帝は河西四郡を設置し、タリム盆地のオアシス都市をも漢の管理下に置いた。紀元前59年、宣帝は西域都護府を置き、西域経営をさらに強固なものにした。しかし、前漢が滅び、短命王朝の新が成立すると、西域諸国はふたたび匈奴の側についた。後漢の将軍班超は西域を攻撃し、紀元後94年頃までには西域を平定。しかし、班超の死後には後漢の西域経営は弱体化した。5世紀後半には西方の遊牧民エフタルが西域を支配する。エフタルの実態は不明の部分が多く、イラン系とも鮮卑系ともいう。6世紀半ばにはエフタルが突厥(テュルク系の遊牧民)とササン朝に挟撃されて滅ぼされた。突厥はその後西域を支配するが、583年に東突厥と西突厥に分裂し、東突厥は630年、唐に服属した。唐は640年に安西都護府を置いて西域経営を強化するが、751年のタラス川の戦いでアッバース朝に敗れる。加えて755年には安史の乱が発生し、唐の西域における支配力は後退していった。その頃、モンゴル高原にはウイグル人の国家である遊牧ウイグル王国が栄えていたが、同国は840年、キルギスの侵入によって滅ぼされ、四散した亡命ウイグル人の一部は南下してタリム盆地に移動し、盆地の東に天山ウイグル王国を建てた。一方、盆地の西には別のテュルク系民族によってカラ・ハン朝が建てられた。カラ・ハン朝が10世紀半ばにイスラムに改宗するとともにこの地のイスラム化が進行した。その後のこの地域は、12世紀には契丹族の国であるカラ・キタイ(西遼、非イスラム)の支配するところとなり、モンゴル帝国、チャガタイ・ハン国、オイラト(遊牧民族)のジュンガル帝国を経て、1758年には乾隆帝治下の清朝の支配するところとなった。
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