オアシス国家の盛衰とは? わかりやすく解説

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オアシス国家の盛衰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:04 UTC 版)

中央アジアの美術」の記事における「オアシス国家の盛衰」の解説

タリム盆地オアシス国家群の起源についてはよくわかっていない。中国側記録によると、この地方には前漢時代紀元前2 - 1世紀36か国、後漢の時代紀元後1 - 2世紀)には55か国があったという。紀元前3世紀頃には遊牧民族月氏がこの地に勢力有していた。月氏紀元前8世紀中国戦国時代)にはモンゴル高原支配していたとされ、その民族系統イラン系とされているが、モンゴル系テュルク系などとする説もある。月氏支配地の東方には、別系統遊牧民匈奴がおり、月氏勢力を争うとともに、南の中国(漢)にとっても重大な脅威となっていた。前述のとおり、紀元前2世紀半ば頃、匈奴冒頓単于月氏破りモンゴル高原統一敗れた月氏西方追いやられ、西トルキスタン定住した。この西遷した月氏を、大月氏称する紀元前2世紀後半北方遊牧民匈奴度重なる侵攻悩まされていた漢の武帝は、匈奴敵対していた大月氏軍事同盟結んで匈奴挟撃しようと考え大月氏への使者募集した。この募集応えたのが下級役人であった張騫ちょうけん)である。張騫使節団率いて長安出発したのは紀元前139年頃であるが、ほどなく匈奴に捕えられ、捕虜となってしまった。張騫捕虜生活中に妻を与えられ、子ももうけたが、10年余の後に脱走。ようやく西方大月氏の国にたどりついた。ところが、大月氏の王は、バクトリアの地は物産も豊かであり、今の暮らし満足しているとして、漢と同盟して匈奴を討つ計画に加わる気はなかった。13年にわたる苦難長旅の後、張騫が漢に帰ったのは紀元前126年のことであった大月氏との同盟という当初の目的こそ果たせなかったものの、張騫西域地理文化などに関する貴重な情報を漢にもたらし、これがその後の漢の西域経営西方との交易資するところ大であった。このことから張騫シルクロード開拓者といわれている。紀元前121年武帝河西四郡を設置しタリム盆地オアシス都市をも漢の管理下に置いた紀元前59年宣帝西域都護府を置き、西域経営をさらに強固なものにした。しかし、前漢滅び短命王朝の新が成立すると、西域諸国はふたたび匈奴の側についた後漢将軍班超西域攻撃し紀元後94年頃までには西域平定。しかし、班超死後には後漢西域経営弱体化した5世紀後半には西方遊牧民エフタル西域支配するエフタル実態不明部分多くイラン系とも鮮卑系ともいう。6世紀半ばにはエフタル突厥テュルク系遊牧民)とササン朝挟撃され滅ぼされた。突厥その後西域支配するが、583年東突厥西突厥分裂し東突厥630年、唐に服属した。唐は640年安西都護府置いて西域経営強化するが、751年タラス川の戦いアッバース朝敗れる。加えて755年には安史の乱発生し、唐の西域における支配力後退していった。その頃モンゴル高原にはウイグル人国家である遊牧ウイグル王国栄えていたが、同国840年キルギス侵入によって滅ぼされ四散した亡命ウイグル人一部南下してタリム盆地移動し盆地の東に天山ウイグル王国建てた一方盆地の西には別のテュルク系民族によってカラ・ハン朝建てられた。カラ・ハン朝10世紀半ばイスラム改宗するとともにこの地のイスラム化進行したその後のこの地域は、12世紀には契丹族の国であるカラ・キタイ西遼、非イスラム)の支配するところとなり、モンゴル帝国チャガタイ・ハン国オイラト遊牧民族)のジュンガル帝国経て1758年には乾隆帝治下清朝の支配するところとなった

※この「オアシス国家の盛衰」の解説は、「中央アジアの美術」の解説の一部です。
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