第2回ウラン諮問委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:07 UTC 版)
「アインシュタイン=シラードの手紙」の記事における「第2回ウラン諮問委員会」の解説
フェルミらへの黒鉛購入のための資金提供の約束がなかなか果たされなかったため、シラードは黒鉛による連鎖反応に関する論文を執筆し、それを公開するかどうか政府に判断を仰ぐという形で揺さぶりをかけようとした。 委員会から4か月以上たった1940年3月7日、シラードはアインシュタインに会いに行き、再び手紙を依頼した。 この手紙はザックス宛のものであったが、ザックスを介して大統領に転送された。 この手紙では、ドイツにおいて核開発が組織的に進展している様子とシラードの論文の問題を記し、大統領への取次ぎの判断を仰いでいる。 大統領は2回目のウラン諮問委員会の開催を指示し、委員会は4月27日に招集された。 これによってフェルミとシラードは約束の 6000 ドルを手にし、黒鉛が中性子を吸収する度合いである捕獲断面積を測定した。 結果は極めて小さく、それは黒鉛を減速材とした天然ウランでの制御された連鎖反応が実現可能であることを示していた。 この後、ウラン諮問委員会は科学研究開発局 (Office of Scientific Research and Development, OSRD) の S-1 ウラン委員会 (S-1 ウラニウム委員会、S-1 Uranium Committee, S-1 は第1課 Section One の意) に引き継がれることとなり、1940年秋にはさらに4万ドルがフェルミのいるコロンビア大学に与えられた。
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